カーテンの隙間から差し込む明るい光で目が覚めた。よく眠れた昨夜だった。今日は2つほどしなくてはいけない仕事がある。また、洗濯デーになりそうだ。朝食を食べているとき、天使(悪魔か?)の声がささやいた。「今日は、比叡山に行きましょう」と。自分でも思ってもいなかった声だったので、「これは行きなさい」ということだと(都合のいいように理解し)出かけることにした。
京阪坂本の駅から、ケーブルの駅まで歩く道は若葉があふれていた。今日は、二人も一緒だ。(姿はないが)昨日は忘れていた母の誕生日のお詫び、そしてもう一人の方がここへ来たかったのではないかと思ったからだ。根本中堂は大改修がかなり進んでほとんど見ることができない。1200年灯る「不滅の法灯」は見ることができた。ツーリストの方が15名くらいいたので、ありがたいお話も聞くことができた。もともとは疫病退散祈願だったと言われた。コロナウイルス感染の早い収束を祈った。
心が洗われた比叡をあとにした。帰りの電車で、永田和宏著の「近代秀歌」を読んだ。何回か読んでいるのだが、今回は少し違う感じだ。第1章は恋・愛ー 人恋ふはかなしきものと から始まる。それも情熱的な歌が多い。そして、許される恋の歌も。「君かへす 朝の敷石さくさくと 雪よ林檎の香のごとく降れ」(北原白秋)この歌が発表されたころは、姦通罪で拘置所に収監されていたという。なぜかこの歌からは永田氏の言うように、生々しさは微塵も感じられない。さわやかな恋のよろこびと人妻を、夫のもとに帰さなくてはならない白秋の痛切な思いが感じられるという。
この章にある歌は、与謝野晶子、与謝野鉄幹、岡本かの子、北見志保子、川田順とみなが世間を騒がせた恋の当事者である。年齢に伴う分別と止めることのできない情熱とは別々のものだと感じざるを得ない。いまなら、SNS上で袋たたきだろう。
さわやかさと清浄さのあとにとんでもないことを書いてしまった。お許しあれ。