冷たい風が強くなり出して、小雪が舞い出しました。ガラス戸がガタガタといっています。外出から戻ったままマフラーをしていました。今夜7時ごろからは本格的な雪になるようです。
大雪と言い、コロナの感染拡大と言い、なんといったらいいのか心が痛みます。この町の近くの居酒屋さんでクラスターが発生とかです。今朝は、「コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」を捧げました。これからはしばらく続けていきます。
宮本輝と読み終わって、キリシタン大名の話を読み出しました。私は、宣教師たちがどのように話をして布教したのかと考えていました。本で読むかぎり、私たちが司祭から聞く神の話と同じなのです。それによってなぜ戦国時代の人たちが洗礼を受けるまでになれたのでしょうか。生きるために人を殺すことが当たり前で、一つ戦争が終わればまた人を殺さなくてはならない、そん時代でした。そうでなくては生きていけなかった時代でした。だから、神から「永遠のいのち」をいただくということは、人間がむなしい存在ではないと思われたのではないでしょうか。
病院等の面会が出来なくなってきたようですね。一番誰かがそばにいてほしい時、近しい人に会えないということはどんなにつらいことでしょうか。今朝も病院の院長が、苦渋の決断ですと話されていました。ご家族はコロナで亡くなられた方とは最期まで会えずに遺骨だけが戻ってきて、その死が受け入れられないということでした。
暗いお話になってしまいました。私はいのちには見えないいのちと見えるいのちがあるように思うのです。もし、見えるいのちしかなかったら、死ぬために生きているようなもののように思うのです。今コロナ禍で、私たちは新しい生き方を模索していかなくてはならないのではないでしょうか。「絆」の語源は馬などを縛っておく(つないでおく)ものの意だったとか。これからの「絆」は見えないものでもつながることができるそんなもののように思うのです。
感染が落ち着いたら、九州のキリシタン大名の歴史を辿る旅に出ないなぁと思うのです。