4月14日は仏滅。キリスト教では、主の晩餐(最後の晩餐)の夕べのミサになります。一度はご覧になられたことのある「主の晩餐」の絵は、翌日、逮捕されるイエスと弟子たちの最後の晩餐で、この場面でイエスを売ったものがいる(裏切者)と発言されたときと言われています。一番信頼されていたユダが得た銀貨30枚はさまざまな見方がありますが、約7000円くらいとも言われています。それで人生を失ったユダ。人のまちがいはこんなことなのでしょうか。
昨日は、自分の生活にイメージを抱いて生きてこなかったことに気付きました。ずっとそうであったわけではないのですが、「こういう生活をしたい」という希望を持てずに生きていた時があったことも事実です。それは経済的に厳しかったからではなく、イメージを持って生きていくということをほとんど意識していなかったように思います。
先日、陶芸の先生の作品展ではほとんどが日常で先生も使っておられる食器が出ていました。「これは便利でご飯も食べられるし、パスタも食べられるんですよ」などを話しておられました。食器に関しては、私もいろいろ使いまわせるものを選んでいましたが、生活全体で「こう生きたい」というような大きなイメージはなくただ生きていたようです。神奈川県大磯にいたころは、昔育った家の祖父の作ったような庭を作りたいとコツコツと石を集め、木や花を植えていきました。それはとても希望に満ちていました。そこでの部屋の設えも、自分なりの豊かさを探した暮らしでした。
それをいつの間にか忘れてしまいました。「しっかりしなくては、しなくては」と人にどう見られるか(社会的な立場)を優先したようです。この長浜で昔の家のような長屋生活でのんびりとしたかったのに・・・。こうありたい、こう生活していきたい、それを夢見てみようと思うのです。きっと夢が破れるのが怖くて、夢を見なかったのでしょうね。
そんなイメージある暮らしを夢見ながら、毎日自分の生き方を大事にしたいと思うのでした。