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わたしが・棄てた・おんな 生きていくためのあい

2024-02-24 18:54:59 | 日記

2月も24日。うるう年なので29日までですが、2月逃げる、3月去るで早いですね。昨夜は、まるでこたつソックス到着以来寒くなかったのですが、しんしんと冷えてきたので、布団にむぐっても寒かったです。起きてストーブをつけると、室温が5℃。寒いわけです。

昨日の続きのようになりますが、何かを許すということは、一つのエゴを(もっとたくさんかもしれませんが)捨てることだなぁとつくずく思うのです。これは宗教の話としてではないのですが、洗礼を受けて10年、やっとなにかが見えてきました。ただ、生きていくには、エゴの愛も必要だということを、遠藤周作さんの「わたしが・棄てた・女」の解説で、森一弘司教が話していました。キリスト教では、エロスという自分を幸せにしてくれるものに向かって燃える愛ではなく、アガペーと言って、自分を無にして相手の幸せを創造する愛を尊いとしています。「わたしが・棄てた・女」では森田ミツが神への愛に生きているのですが、最後、交通事故に遭い息を引き取るときに口にしたのは、自分を捨てた男性の名前だということです。献身的に人のために生きることは尊いことですが、それだけでは人は孤独だと思うのです。こころの深いところに、相手を受け取ろうという激しい愛が無ければ、生きる喜びと深い充実感は得られないのではないでしょうか。

日々エゴを乗り越えて生きていくとしても、その根底には何かに向かって燃えてく激しい愛があるように思います。だから、乗り越えられるのではないでしょうか。

神父さまにもこひがあり、そんな神父さまをこひするひともいます。それをじっと動かずに深く深く沈めていく知恵を持てればいいような気がします。ひとをあいしたというこころに素直であることが、あいにおいては大事ではないかと森司教も話しておられました。

 

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