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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

 針仕事

2017-12-08 22:23:23 | 日記
 暖かい湘南も夕方から雪が降りそうな空模様になった。夜になるとしんしんと冷えてくる。今年は体調がいいのかあまり寒く感じないが、今夜は暖房が切れない。

 NPOの来年の事業計画の話をほかの理事の方にすると、3年後、5年後、10年後を見据える長期的展望も必要でしょう というメールが返ってきた。あまり、必要とされていない仕事をしているように感じるこの頃だけに、5年、10年という数字は地獄のような数字だ。たしかに、組織にした以上どう継続させていくか、どういう組織つくりをしていくのか考えなくてはならない。

 ちょっと違うことをしながら考えようと、針仕事を始めた。針仕事は机ではなく座ってしたいので、座布団を出して始めた。チクチクと針を進めながら、祖母と母が同じように針仕事をしていたことを思い出した。祖母は和裁や洋裁等を教える家で生まれたので、針仕事はお手のものだった。母はそこへ和裁や洋裁やお花を習いに行っていたのでやはりなんでも器用にこなした。その血を受け継がなかったが、子供のころからそんな家で育ったので針を持つことは苦にならない。縁側に座って鼻眼鏡でお針仕事をしているおばあさんに憧れるこの頃だ。私の中で針仕事は、日本家屋が似合うのだ。

 なんとなく部屋が寒そうなので、頂いた紅葉の写真をプリントして飾った。部屋が赤くなった。パソコンの画面で見るよりもさらに鮮やかで、明るい。あたたかとやさしさが伝わってくる。10年後は、縁側で針仕事をしている のならわかるけど、おそらくITの進歩で想像もつかない形にNPOはなってるのではないだろうか。いまから10年前、スマホによるこんな便利な生活を想像できただろうか。ただ、方針は変えるつもりはないから、媒体の変化が変わるだけではないだろうか。それにしても針仕事は非文明で変わらないものだ。紅葉の写真のように、祖母や母のあたたかとやさしさがある。

 
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 からすの涙

2017-12-07 22:07:13 | 日記
 夜になるとさすがに寒くなってくる。部屋の温度差がないように、廊下にストーブをつけている。狭いマンションは、どの部屋も暖かくなった。夜の外の寒さを知らずに部屋で過ごせるのは幸せだ。

 1万歩以上歩く日が続いている。NPOの用事、自分の用事と出歩くことが多い。夕方、用事をたした帰り道で、やたらからすが鳴いている。電線の上で一羽、必死で泣いている感じだ。足元に一羽のからすの死骸があった。傷も無く、静かに死んだ感じだった。そうか、電線の上のカラスが番なのだろうか。たしか、鳥は一夫一婦制が多く、生涯を共にすることが多いと聞いたことがある。カラスはそうだったと思う。そのカラスの鳴き声は泣き声のようだった。暗くなる時間帯に、止むこのとないその声が哀れさを感じさせる。

 友達が離婚したときに、子供たちのこともあり一駅はなれたところに越した。3人の娘の2人は彼女と、1人の娘は、絵の勉強をしていたので、広さのあるご主人のほうに住んだ。猫が2匹いて、1匹ずつ引き取った。彼女の引き取った猫は、引っ越した日から狂ったように鳴いて、ご飯も食べなかったという。ご主人のほうの猫の様子を聞いてみると、部屋のカーテンをびりびりにしているという。同じようにご飯は食べずに鳴いているという。「猫はご飯も食べられないで狂ったように鳴いているのに、わたしは悠々とご飯を食べているのよ。娘一人をおいてきてしまっているというのに・・・」と彼女は落ち込んだ。結局、彼女がもう1匹引き取った。

 今夜はあのカラスの鳴き声が思い出される。胸が痛い。

 

 
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 手編みのセーター

2017-12-06 21:12:48 | 日記
 この季節になると「北の宿から」の歌詞を思い出す。『あなたかわりはないですか 日ごと寒さがつのります 着てはもらえぬセーターを・・・・』。何年か前にこの歌の別れた男の人のセーターを編むというのは、自分の気持ちにけりをつけるため という強い意志の歌だと 聞いた。悲しい女や弱い女を描いたのではないという。でも、阿久悠さんはセーターを編む女心を知っているのだろうか?と思った。

 簡単なマフラーでも10000目以上編まなくてはならない。だから手編みのセーターなど着ている男の人には近づいてはいけない というのだろう。一目、一目と相手を思わずに編むことはできない。1日に500目編むとして20日は思い続けることになる。別れた人を忘れるために、けりをつけるためになど編めるわけがない。

少なくても私にはできない。無理に忘れようとするよりは自然消滅するまでじっとしているほうがいいと思う。段々年をとるとそういうものもなくなってしまう。ただ、お針箱の整理で、古い毛糸が出てきたときに、あのときに毛糸だろうか?と思う。そうだ、クリスマスに と思って、贈れなくてバレンタインデーに出来の悪いものを送ったなぁ などと思い出す。

 やっと先ほど、1週間分の洗濯物と手紙の整理が出来た。机の上もソファーの上もきれいになった。(何日続くことか)さて、なにか手仕事でも始めようか。そんな時間が今、一番好きだ。

 

 
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 時を待つ

2017-12-05 22:58:47 | 日記
 今夜は月がきれいだ。かの人も同じ月を見ているだろうか、とそんな和歌を思い出す。今日はなかなか予定の合わなかったお友達と昼から夕食までのんびり過ごした。同じキリスト者なので「分かち合う」という感じだ。やらなくてはいけないことがお互いにたまっている状況だが、そんなことよりともにともに過ごす時間を大事にした。このごろ、ゆっくり考えてから動き出すようになった。もちろん、感覚的にそれ!と動き出すこともあるが、基本的には時を待っている。そこまでは、まだ迷いのときなのだと。答えは向こうからやってくるというのか。急がなくても大丈夫と思えるようになった。ゆっくりしていても確実に物事が進んでいる。

 生きるということもそんなことのように思える。細胞が私を生かしているというのか。そんなふうに動いていると身体は機嫌がいいらしい。私ではないなにかが私を生かしているというのか。身体も無理をせず時を待っているようだ。

 紅葉を愛で、月を愛で、師走のあわただしさも逃げていくようだ。でも、明日は仕事かな。

 

 
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15センチからの真実

2017-12-04 20:07:05 | 日記
 わずかな時間を使って出かけた京都でした。想像よりは観光客が少なかったです。若い人の貸衣装の着物姿が多かったです。でも・・・・。

 京都の町をバスで走っているとき、初めて京都のまちが「うそっぽく」感じました。(京都は大好きですが)これは「うそ」では?血で血を洗う舞台であった京都が、なにかそんなことはありませんでした と取り澄ましている感じです。古い建物と近代的なビルが(制限をかけられながらも)立ち並ぶ市内は、その古い建物がうそっぽく見えるのです。

 歴史とは「争い」の連続である、と思いました。日本史だけでなく世界中何処の国のどの地方の歴史も血で血を洗ってきています。征服と服従の歴史です。海外ではそんな爪あとを保存しているのに。そんなことを思いながらバスに乗っていました。でも、うそを感じるのは私の心のなにかの鏡かもしれません。私は「うそ」を隠して生きているのでは? と思えるのです。隠れキリスタンのように「仏」を信じたふりをしがら「キリスト」を信じるような。あたかも自宅から来ましたのように、貸衣装の着物を着せてもらい、京の街を歩いているような。

 浜松のホテルから(16階)美しい朝日を撮ろうと思いました。窓は15センチも開かないのです。窓の中から撮ると部屋の中がレンズに写ります。窓から手を伸ばしてカメラを出してやっと撮れました。ぎりぎりで朝日が入っていました。

 本物とはそういうものなのかもしれません。私の本物は?うそっぽくない私は?

「いつも心はあなたのそばに」

 
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