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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

人生の旅

2018-07-10 16:36:37 | 日記

 7月10日、梅雨明けが待たれる頃なのに、夏の日差しが注ぐ。部屋はエアコンを入れないと28度近くなる。それでも、乾いた風が海から吹いてくる。溜まっていた家事をこなし、世間の義理を済ませただけで、この時間になる。

京都は奥が深い とおっしゃった方がいる。確かに、深い。というか複雑というか多彩というか、御所があり、武士たちの戦いし痕跡があり、さまざまな宗派のお寺があり、神社がある。(教会も小さくなってありますが)そして、お茶の文化というと、またこれが入り組んでいる。退蔵院の写真のような言葉がありました。「帰る家か?」この家には帰ると、祖父母・父・叔父、母、イエス様、そして誰かわからない食事を共にする人(たぶん神さま)がいる。4人分のお水やお茶やらが必要になる。これらがきちんと処理できるまでは「土」には還れない。全部処分して、パンツ3枚だけ というのが理想だを言う話がある。

部屋を見てその雑然とした様子にぞっとしながら、でもこれが「生きている」ことだと 思う。そして最期は、もう1枚の写真になるらしい。これも意味深い。

 

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人をつなぐもの

2018-07-09 19:56:17 | 日記

先週末から富山で開催されたがん哲学外来の講習会と大会に出かけた。7/7ががん哲学外来コーディネーター講座。関東の人は受講できたが、関西の人は欠席も目立った。昨年(神戸)と比べると内容的にも楽しいムードで、みな今年は楽ね と言っていた。「がん哲学外来」は医療と患者さんをつなぐ役割だが、「哲学」となるので「患者会」とか医療機関の相談窓口とも違う。「哲学」とは?

幸い帰りの7/8の夕方は晴れて、暑くなった。京都へ回って帰ることにした。金沢から大阪までのサンダーバードで「がん患者だけでなく、病気や介護に悩む人にできることは何なのだろうか?その人自身が越えていかなくてはならない人生の壁でも、何があれば少しは楽になるのだろうか?」そんなことを考えた。母は自分がほんの少しでも役に立っ生きていること、それまで自分のしてきたことがそのために役に立っている ということで生きがいを感じていた。人は自分の生きた(生きている)意味を感じたいのではないだろうか。そして、つらいときは、やはりつなぐ手が欲しいのではないだろうか。肩を抱いてくれる手が。言葉だけではだめな気がした。

京の街はさらに暑かった。行きたかった成就山の八十八ヶ所めぐりは「足元はともかくこの暑さが大変です。今度はお一人ではなくお越し下さい」と言われた。「お一人ではなく」なら来られる時はない と悲しかった。仁和寺から妙心寺へ。無常を感じながら歩いた。「私を繋ぎ止めていた母がいない。もう、なにも私をつなぎとめるものはないのだ と。だれもいない桂春院庭園を眺めていた。こんなときの枯山水は、悲しい。最後に妙心寺の退蔵院へ。水琴窟があった。先日買った鈴よりは少し音が小さいが同じ音色だ。以前に私はここに来たのだろうか。暑くて室内で一服のお茶を頂く。帰り道、はっと気がついた。余香苑のしだれ桜は(今は緑だけ)春に写真で送っていただいたものではないか?あの時、何処の桜とも気にしなかったが・・・。どうして、どうして私はここに来たのだろうか?不思議だ、水琴窟といい、しだれ桜といい・・・。

「生かされている」そういう運命がある。だから、理屈ではないものが人をつなぎとめている。私は一人ではない。私をここに招いたものがいるということは。

 

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人は神にはなってはいけないこと

2018-07-06 21:42:33 | 日記

 各地で数十年来の豪雨で大きな被害が出そうだ。今年もまた水害。水は恐いと思う。10分間ほど七夕の写真を撮りに行くと大雨。道路に水が溢れ出し、服はびしょびしょで帰宅した。これが1日降り続いたらと思うと背筋が寒くなる。ただ、被害が大きくならないことを祈るしかない。

 オウム真理教の中心人物の死刑が執行された。調度、安岡章太郎と井上洋治(司祭)の共著「我等なぜキリスト教徒となりし乎」を読んでいた。その中に「オウム事件は宗教的欲求を社会がうまくリードできなかったからだ」という章があった。宗教的欲求は長い何万年もの歴史の中で、人類がその深層意識で培ってきたものだから、やめようといってやめられる種類のものではなく、この欲求を社会が上手くリードしていくことが大切だ と言っている。今回のオウム真理教のように、なにも解明されなければ、再び新興宗教といわれるようなものが登場してくるのではないだろうか。

何かの番組で、ロボット産業でヨーロッパ諸国が日本に遅れをとったのは、「キリスト教」の影響もある という話をしていた。「神」が「人間」を作ったと考える宗教では、人間に似た「ロボット」を作ることは「神」の領域にはいる という考えらしい。仏教とは大きな違いだろう。

 話は違うが、AIのW杯予想では優勝がブラジル、2位がドイツ、そして日本の予選通過は43%だった。すでにドイツと日本はデータからの分析とは違う結果だ。私は人間には、測ることのできない潜在的な能力があるような気がする。というか、「祈る」という行為そのものが人の潜在的な欲求から(自分では気がつかない)もののような気がする。そういうわからない領域は「神」の領域で、AIでは解明できない領域のように思う。

神も仏もない というような自然災害。難しいことではなく、私たちは生かされている、おかげさまで生きている ということを語ることが宗教のような気がする。

 

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水琴窟

2018-07-05 21:31:18 | 日記

 また、めまいがやってきました。たぶん寝不足が原因と夕方からクーとデコをどかしてソファーでお休みでした。W杯のクリッピングで忙しい親友のために、お惣菜つくり。「うれしいけど、ほどほどにね」と私の性格を知る親友は言いました。今回は高校生の男の子がいるくらい料理を作ってしまいました。年寄りの女二人分なのに。その疲れもあるのかもしれません。結婚しているときは、毎日、こんな風に料理をしていたんだなぁ・・・・。(偉かったなぁ と自画自賛)

夏のご挨拶と母のお悔やみのお礼にと買いものとお菓子つくりも忙しい時期でした。「ぶたもおだてりゃ木に登る」でお菓子を美味しいと言って頂けると、つい頑張ってしまいます。そんな買い物の折、有隣堂という本屋さんのレジに並んでいると、水琴玉鈴 なるものを見つけました。あの水琴窟の音がする鈴とか。振ってみると繊細な音がします。「欲しい」と衝動買いです。(そう高くはないのですが)2つにしようか?微妙。

めまいが起こると不安です。今回は軽いのですが、下を向けないのがきついです。水琴玉鈴を鳴らしてみようか。音が共鳴するかもしれない。うとうとしながらそんなことを考えていました。TVで見る大雨の情報も気になります。

水琴窟をはじめてみたのは、どこの庭だったでしょうか。中学時代の友達と京都で見たことは覚えてますが、どこか?です。日本庭園の繊細な音の文化ですね。鈴がなくても、心は共鳴するもの。2つか買う必要はなかったようですが、この音はストレスにいいそうです。今日はTVの音も消して、静かに休みます。

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右の頬を打たれたら

2018-07-04 21:00:21 | 日記

 今日も風が強い。ベランダの植木が風に揺さぶられている。でも植物は強い。少し傾いても明日には、またお日さまのほうを向いている。倒れてもそれでも花を咲かせている。

天気のせいか腰やら足が痛む。今日のお茶のお稽古はつらそうだ。おかしなもので、お茶を再び習いだして、30年以上も前に習った動作が自然に出てくる。脳のどこかに記憶されていたものが出てくるのだろうか。30年前はただ順番を暗記するだけだったが、今はその流れの無駄のなさ、規則正しさに驚きながら習っている。無意識に手が動く。お茶席での駆け引き?のようなものもおもしろい。お茶は男世界のもののようにも思う。

流れに逆らわないで動くと無駄がない。聖書を思い出すのだが、右の頬を打たれたら?左の頬は打たせられるだろうか?昔は当然相手の右の頬を打った。直接打たなくても、打撃の与え方を知っていた。でも、今思うと、それで何が残ったのだろうか。何も残らず、失うもののほうが、多かったのではないだろうか。相手を打たなければ、失うものはないということに、最近気がついた。損得を考えるのではなく、ただYES と受けるのが一番だと思う。思わぬものが、還ってくる。まぁ、打たれたら痛いのよ、位は言ってみようかな。

 

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