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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

ふたりでみたい夕日

2019-03-08 18:34:31 | 日記

夜中(もう朝に近かったが)ガタガタと音がする。地震だろうか。寝ぼけた頭で考える。どうも玄関の戸がガタガタいっているようだ。かなり強い風が吹いているらしい。台風のときはたいへんだなぁ などと思いながら眠ってしまった。風のおかげか雨の予想が晴れになった。2階のカーテンを開けると陽射しが差し込んでくる。晴れの日はうれしい。今日は2階で仕事ができる。1階と2階の生活の区分は、生活にリズムがでるのでストレスが減った。

お昼ごろ買い物に出かけると、背中が痒い。気温の変化だろうか。寒冷か温暖かのアレルギーだろうか。年のせいか小さな環境の変化に敏感になる。アレルギーもその一つだろう。昔は『背中のボタンが止めにくい』だったのが、今は『背中のアレルギーが掻きにくい』だろうか。友だちは薬が塗れなくて困るという。なんとも色気がなくなってしまった。

夕方、近くへ買い物に出ると、調度夕日が沈む時間だった。春分の日も近いのであの方向が西なのだ と思った。琵琶湖に沈む真っ赤な大きな夕日は正にあれなのだ!琵琶湖までは25分かかる。今日は諦めよう。この夕日が私を長浜に招いたのだ。家に戻って、ネットのニュースを見ると、「絶望しても生きろ」本の教え というタイトルがあった。きっとフランクルノの著書「夜と霧」でないかと思った。岩手県の陸前高田市で震災の被害を受けた人たちが『夜と霧』の読者会を開いたというニュースだった。絶望の中にも希望があるのを、教えてくれた本だ。ナチスドイツの収容所の厳しい条件のなかでの1日の作業を終えたときに、美しい夕日を見たという文章があった記憶がある。あるゆる希望がないなかでも、まだ美しい景色がある。それは「人生が自分への期待」をやめないということだという。

『生きる』より『死ぬ』方が楽と思った日もあったが、私はどこかで美しい夕日を見たのだろう。そして、私に期待してくれる子供達に出逢った気がする。だから、いまも夕日に魅かれるのだろう

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またね の後姿

2019-03-07 18:40:34 | 日記

気圧配置の影響か晴れたり、雨が降ったりの1日でした。どこか春の気配があるのに肌寒いです。たまには掃除をと今朝は掃除からでした。和室の炬燵を上げるとすっきり。これはこのほうが気持ちがいいと 炬燵布団はしましました。広い玄関も掃除して、母の書を飾りました。土間から格が上がった感じです。

先日、東京から新幹線で帰宅するときでした。空いた車内でした。名古屋からの乗客が私の席の斜め前に座りました。中年の男女二人。ご夫婦のような感じですが。でも、なんとなくご夫婦とは雰囲気が違う気がします。(長年の感?)まだ、夕食には早く、お昼には遅い時間に男性は食事を始めました。なにか静かに語り合っています。次は岐阜羽島。あまり時間はありません。女性が荷物をまとめて降りる感じです。なにか親しげに話していますが、わかりません。「では、また・・・」という感じです。女性がホームに下りると、男性は窓側の席に移り、女性に手を振っています。発車までは2分くらいあります。目線の先には女性も手を振っていました。

ああ、ご夫婦ではないようだなぁ なんて思いました。新幹線が発車すると男性は、しばらく何かを思うような様子で座席に座っています。すぐにスマホなどは始めません。あんなに「さよなら」をする男性は珍しい気もしました。昔はどうだったかな?車で送ってもらうときは、思い切って車を出す彼を、ずっと見送っていた気がします。電車でもドア越しにお互いに手を振っていたように思います。別れたあとの男性の姿を見るのはあまり機会がないので、ああ一緒にいた時間を思い出しているのかな などと勝手に想像します。

この年になると「またね」が不確実になります。まぁ、若くてもどんなことがあるかわかりませんが。そんな別れの場面で思い出すのが『冬ソナ』です。「最後に見たものが後姿だなんて嫌だから、振り向かないで別れましょう」とユジンさんは言いました。振り向いてはいけないと振り向いたら、ちょっと振りかえった姿が見えました。「またね!」

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はるはさびしくて

2019-03-06 18:51:17 | 日記

春に3日の晴れなし というとおり、今日はどんよりした空から雨に変わった。午後にコピー機の契約でコピー会社の営業の方がいらした。場所がわからないと電話があった。そうだよねぇ、長屋風のぼろ家が事務所とは思えない。申し訳ない気がした。そのあと、炬燵で仕事をしていると起きているのがつらくなった。疲れが取れないらしい。恐ろしいスピードで段ボールと戦った疲れだろう。また、ダウンした。

昨年の今日書いたぶろぐが配信されてきた。「春にしてきみを離れ」という題だ。アガサ・クリステイの本の題名だ。それよりも「ひとり」というキーワードがある。「ひとり」を選ぶようになった と書かれている。実はこれは強がりだ。「情熱は3年も続かない」とも書かれている。そんなこともない。そこに漂うさびしさを他人の文章を読むように感じている。なにがさびしかったのかわからないが、がんばって「ひとり」で生きるのだ といっている。

さびしいときはさびしくて、誰かに側にいてほしいときは、ほしいのだ。前にも書いたように、それが悪いことでもない。だから人は結婚し、家族をつくるのだから。

そんな風に思うと、とても楽だ。隣のおばあちゃんのうちにはお孫さんが来ているのかにぎやかな声がする。木造の長屋風のこの家はそういう意味でいい家だ。雨の音がする。ご飯が炊ける匂いがする。そして、炬燵でラブレーターを書いている私がいる。春はさびしくて と。

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おとなの男と大人になれない男

2019-03-05 19:40:45 | 日記

夕方6時過ぎに長浜に戻った。駅が街が暗いのにびっくりする。東京も平塚も明るすぎるのだろう。ああ、帰ってきた!と思えるのがうれしい。街中でも水の流れる音が聞こえ、家までに出会った人は3人。すれ違った犬を散歩させる人の爽やかの香水の香りが春を感じさせる。静かな街並みを歩きながら、やはりここに来てよかったと思う。

東京では理事会が無事終わり、平塚で教会のお友だちと分かち合いながら、近江牛の焼肉を楽しむ。たしかにおいしい。翌日は、身体のメンテナンスをまず最優先にした。受付の男の子も「本当に来たんですね」とちょっとうれしそうだった。わずか10日くらいの再会を喜ぶ。T先生は引越しのことはあまり聞かない。大人なのだ。話題は、彼の友だちの結婚式の話とサッカーの話だ。それでもお土産は嬉しそうに見て「これがおいしい近江牛ですか?」と近江牛のポテトチップを笑った。ここは男の子になる。

お世話になった神奈川の70歳以上のサッカー仲間の練習会に、身体がすこしだるいが顔をだした。「めずらしい!」と言われるか「おお、来たか!」と喜んでくれた。長浜に越したことはメールのある人は知っている。それとなく聞いている人もいる。「なにか、引っ越すのを言うのがつらくて・・・」でほとんどの人は理解してくれた。それくらいとけ込んでいたのかもしれない。「どうして長浜に越したのですか?」と聞く人もいる。「まぁ、一言にはいえないなぁ」と言えばそれ以上聞かないのが大人の男。それ以上聞くのは野暮なのだ。それよりも「どう?少し落ち着いた?」とさりげなく聞いてほしい。(わたし的願望)

わたしが隠し持っている一本の細い糸に気がつかなくても、まぁそれもありなん・・・・と想像力が働く男の人は・・・。私は面倒でない男の世界が好きだ。帰りにはそっと「またねぇー」で済むのがいいほんとうはさびしいこともあるんだけど。

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未練かやさしさか

2019-03-04 23:52:17 | 日記

米原から名古屋方面に向かう新幹線に乗る。そして東京へ。いつもと逆だ。雨に煙る車窓からの風景。それでもどこか春の香りがする。東京駅は旅行客で溢れている。私も旅行者なのだろうか。NPOの理事会で東京駅につくと妙な気持ちだ?

理事会のあとは、10日前まで住んでいた平塚へ。住まいだった近くのホテルに泊まるのは妙な気持ちだが、ああ、引っ越したのだなぁと思う。

平和な引越だったのだと思う。引越は別れだったことが多い。住んでいたところを訪れることはなかった。でも、同じところに住み続ける男の人もいる。つらさより未練のほうが強いのだろうか。それとも心配なのか。女の人はそういうことでは冷たい。終わりは終わりなのだろう。

ぼろぼろの心も癒されることもある。大丈夫よ。人生はそんなに捨てたものではないから。

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