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神聖天皇主権大日本帝国田中義一政権は緊急勅令で治安維持法改正、「山本宣治」襲撃事件、ファシズムの強化と中国侵略本格化

2025-02-28 23:17:37 | 緊急事態

 山本宣治(1889~1929)は1928年2月の第1回普通選挙で、労働農民党から当選した代議士であった。第56帝国議会で治安維持法改正反対し奮闘したが、29年3月5日に右翼の黒田保久二により暗殺された。

 1889年、父は山本亀松、母はタネといい、京都府に生れた。宣教師の「宣」と明治の「治」をとり、「宣治」と名づけられた。19歳の頃、カナダに渡った。皿洗い、ホテルの臨時給仕、新聞配達などをし、鮭缶工場などでも働いた。牧師の世話で、英人小学校からハイスクールにもすすんだ。「父、病重し」との電報を受け取り、5年間のバンクーバーでの生活を後にした。帰国後、同志社、三高、京都大学に通い、植物学、遺伝・生態などの動物学を学んだ。東京大学の時には、マルクス主義研究の「新人会」に加わった。

 学校を終えると、同志社大学予科で「人生生物学」と名づけた「性教育」講義を始めた。1922年、米国から産児制限運動家サンガー夫人の来日をきっかけに、労働者、農民の間に産児制限運動を始めた。やがて各地の労働学校、農民組合、水平社、学生の社研などに東奔西走した。

 1926年1月には、治安維持法違反で、河上肇とともに家宅捜索を受け、同志社からも追放された。同年5月には南山城の小作争議の指導に奔走。

 1928年2月、第1回普通選挙で、労働農民党から当選した。労働農民党・社会民衆党・日本労農党など無産政党は466議席中8議席しか得なかったが、日本共産党左派が労農党の背後で活動したと考えた時の田中義一政権(1927年4月~29年7月)は、28年3月15日、治安維持法を適用し、共産党員とそのシンパ約1600人の大検挙(3・15事件)を行った。4月16日にも大検挙(4・16事件)を行った。山宣は事件の犠牲者救援運動の先頭に立ち、全国各地を回り、被告の受けた「拷問」についての調査をし、これに基づき政府を徹底的に糾弾した。

 しかし、1928年6月29日、田中政権は昭和天皇の緊急勅令治安維持法を改悪し、最高懲役10年であったのを、無期及び死刑に改めた。枢密院で承認を受け、公布・即日施行した(7月には未設置の全県警察部に特別高等課設置)。

緊急勅令……天皇大権(天皇が議会の協力なしに行使できる権能)の一つ。緊急の必要により議会閉会中に天皇が発令し、法律に代わらせた勅令。ただし、事後に議会の承認を必要とした。

※勅令……国務大臣の輔弼のみにより議会の審議を経ないで制定される立法

 1929年3月5日、山宣は衆議院第56議会で、治安維持法改正(改悪)に反対(事後承認に反対)したが、討議打ち切りの「動議」を出されて発言を封じられ、249対170の票差で「事後承認」されてしまった。

 そしてその夜には、神田の定宿「光栄館」にいた山宣は、右翼の黒田保久二により襲撃され殺されたのである。部屋の壁には「戦争撲滅のため奮闘せよ」と書いた紙を貼っていた。

 さらに今日の主権者国民が驚くべき事は、警視庁(東京)特捜課長が、黒田を「正当防衛」と発表したのである。この事は検察庁をも驚かせたというが、神聖天皇主権大日本帝国政府の恐ろしさを示しているといえる。

 この事件の後、神聖天皇主権大日本帝国政府はファシズム化を強め、1931年9月18日には満州事変を引き起こし、中国東北部への侵略を本格化したのである。

(2020年5月3日投稿)

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小林多喜二『書簡集』に見える思想の一端

2025-02-28 14:18:09 | アジア・太平洋戦争

 小林多喜二(1903~1933)は、1933年2月20日、治安維持法違反や不敬罪に問われて逮捕され、築地署で、警視庁第二特高課テロ係の手により拷問を受け、同日虐殺された。労働者の生活や闘争を中心に描いたプロレタリア作家として活躍し、作家同盟の書記長ともなった。代表作は『蟹工船』『一九二八・三・一五』である。彼の思想の一端を知れるものとして多喜二の『書簡集』より、「恋人・」あてのものを以下に紹介したい。

「『があるからがある』。そして、闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有り難さがわかるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しい事を味ってみなければならない。ちゃん(恋人・娼婦)たちは嫌な生活をしている。しかし、それでも決して将来の明るい生活を目当てにする事を忘れないようにね。そして、苦しい事もそのためだ、と我慢をしてくれ。」

※1929年3月5日夜には、山本宣治衆議院議員(労農党)が、「治安維持法改悪に対し、帝国議会でただ一人、身を挺して反対し続けたが、右翼暴力団員(黒田保久二)により刺殺され、39歳の生涯を閉じた。

 山本宣治の衆議院における質問

「こういう風な(拷問の)実例は多くあります。用いられた道具は例えば鉛筆を指の間に挟み、あるいは三角型の柱の上に座らせてその膝の上にを置く、あるいは足を縛って逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流して気絶するまでうちゃらかしておく、あるいはに座布団を縛り付けて竹刀で殴る。あるいは胸に手を当てて肋骨の上を擦って混迷に陥れる。あるいは生爪を剥がして苦痛を与えるというような実例が至る所にある。……ただいま申し上げました実例に関しては、全部責任ある事実に基づいた陳述である。これに関して当局が如何にせられるか、とにかく我々は、あくまでこの現代の社会における97%を占める無産階級の政治的自由、これを獲得するために、こうした暗澹たるこの裏面には、犠牲と、血と、涙と、命までを尽しておるという事を申し述べて、私の質問を打ち切ります。」

(2025年2月28日投稿)

 

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「国際連盟脱退通告」に見える大日本帝国政府の傲慢による孤立化

2025-02-26 18:48:19 | アジア・太平洋戦争

 神聖天皇主権大日本帝国第2次若槻礼次郎内閣(1931.4.14~12.11)関東軍による1931年9月18日の柳条湖事件に始まる満州事変」に関し、1933年2月24日国際連盟リットン報告書を骨子にした「対日勧告案」を総会で審議した。結果は賛成42対反対1(大日本帝国政府のみ)で採択された。これに対し松岡洋右代表は、「大日本帝国政府は今や日支(中華民国政府)紛争に関し連盟と協力する努力の限界に達したと感ぜざるを得なくなった」と述べ退場した。大日本帝国斎藤実内閣(1932.5.26~1934.7.3)は1933年3月27日付の電報により、国際連盟脱退の意思を通告した(通告の日より2年後の1935年発)。通告電報によると脱退理由は以下のようである。

「……。昭和6(1931)年9月日支(中華民国)事件の連盟付託を見るや、帝国政府は終始右確信に基づき、連盟の諸会議その他の機会に於て連盟が本事件を処理するに公正妥当な方法を以てし、真に東洋平和の増進に寄与すると共に其の威信を顕揚せんが為には、同方面に於ける現実の事態を的確に把握し、該事態に適応して規約の運用を為すの肝要なるを提唱し、就中支那(中華民国)が完全なる統一国家にあらずして其の国内事情及国際関係は複雑難渋を極め、変則例外の特異性に富める事、従って一般国際関係の規準たる国際法の諸原則及慣例は、支那(中華民国)に付いては之が適用に関し著しき変更を加えられ、その結果現に特殊且異常なる国際慣行成立し居れる事を考慮に入るるの絶対に必要なる旨力説強調し来れり。然るに過去17カ月間連盟に於ける審議の経過を徴するに、多数連盟国は東洋に於ける現実の事態を把握せざるか、又は之に直面して正当なる考慮を払わざるのみならず、連盟規約其の他の諸条約及国際法の諸原則の適用殊にその解釈に付、帝国と此等連盟国との間に重大なる意見の相違ある事明らかとなれり。其の結果本年2月24日臨時総会採択せる報告書は、帝国が東洋の平和を確保せんとする外何等異図なきの精神を顧みざると同時に、事実の認定及之に基づく論断に於て甚だしき誤謬に陥り、就中9月18日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非ずと憶断し、又同事件前の緊張状態及事件後に於ける事態の悪化が支那(中華民国)側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新たなる紛糾の因を作れる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。殊に其の勧告中に掲げられたる条件が、東洋の康寧確保に何等貢献し得ざるは本年2月25日帝国政府陳述書に詳述せる所なり。之を要するに多数連盟国は日支(中華民国)事件の処理に当たり、現実に平和を確保するよりは適用不能なる方式の尊重を以て一層重要なりとし、又将来に於ける紛争の禍根芟除するよりは架空的なる理論の擁護を以て一段貴重なりとせるものと見る外なく、他面此等連盟国と帝国との間の規約其の他の条約の解釈に付重大なる意見相違ある事前記の如くなるを以て、茲に帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にする事を確認せり。仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信じ、連盟規約第1条第3項に基づき帝国が国際連盟より脱退する事を通告するものなり。」(国際連盟協会発行『連盟脱退関係諸文書』)

※「帝国政府陳述書」では、日本政府は満州における日本軍の行動、日満議定書の調印は国際連盟、9カ国条約、パリ条約などの国際条約に違反せず、且満州国の樹立は極東における共産主義の危険に対する障壁であるという自己弁護を展開したものであった。

※日本軍は1933年3月4日熱河を占領、さらに万里の長城南側の華北に侵入、4月には山海関南方の秦皇島北戴河も占領し、5月31日関東軍代表と中華民国政府軍代表との塘沽停戦協定締結により、「満州国」を大日本帝国政府の傀儡国として中華民国から分離した形で、満州事変を終結させた。

※大日本帝国のメディアは、例えば東京日日新聞1931年10月27日付は見出しを「守れ満蒙 帝国の生命線」とし、幣原喜重郎外相と南次郎陸相の大きな顔写真を載せ、「満州・モンゴルにおける日本の特殊権益は、『日本民族の血と汗の結晶』」と政府・軍部の侵略行動を支持・擁護し、国民には戦意を煽った。

(2025年2月26日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山東出兵・東方会議(大日本帝国政府の中国侵略外交政策)

2025-02-26 00:24:08 | 中国・台湾

 中国に対する侵略(積極)外交政策は、神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信内閣(1914.4.16~16.10.4)による1915年1月18日の21か条の要求」から始まるが、その後の田中義一内閣(1927.4.20~29.7.1)では、先ず3次にわたる「山東出兵」が行われた。「第1次出兵」は1927年5月、「第2次」は1928年4月で「済南事件」を引き起こしている、「第3次」は1928年5月であり、日本人居留民の保護を名目にしていたが、実は1926年7月に開始された蒋介石国民革命軍による北伐の北上華北、特に東三省への波及)阻止にあった。次に「東方会議」開催(6月27日~7月7日)であった。神聖天皇主権大日本帝国政府の中国侵略外交政策の確立のため、田中(首相兼外相)、森恪(外務政務次官)、芳沢謙吉(駐中公使)、畑英太郎(陸軍次官)、大角岑生(海軍次官)、南次郎(参謀本部次長)、野村吉三郎(軍令部次長)、武藤信義(関東軍司令官)、吉田茂(奉天総領事)が参加し、「対支(中華民国)政策綱領」を発表した。

内容は、要約すれば、満蒙の権益を実力で守るという事であった。➀大日本帝国政府の極東における特殊の地位に鑑み、支那(中華民国)本土と満蒙を区別・分離させ、満蒙を大日本帝国政府の勢力下に確保する事、➁中華民国の全国的統一は見込みなく、中央政府確立は容易ではないので当分各地方における穏健なる政権と適宜接近し、地方軍閥の分裂抗争を助長する事、③不逞分子、不良分子によって、支那(中華民国)における大日本帝国政府の権利利益並びに在留日本人の生命財産にして、不法に侵害せらるるに於ては必要に応じて断然たる自衛の処置に出るという現地保護政策、④単に満蒙における個々の権益擁護にとどまらず、万一動乱満蒙に波及し、治安乱れ該地方に於ける我が特殊の地位、利益の侵害されるおそれのある時は、これを防護・保持するという満蒙分離政策、などであった。

1928年6月には、国民には知らせず「満州某重大事件」とよばれた謀略張作霖爆殺事件」を起こす。

(2025年2月26日投稿)

 

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張作霖爆殺事件(満州某重大事件)に見る神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略体質

2025-02-23 21:39:02 | 中国・台湾

 張作霖(1875~1928)は、中国人の中流農家に生まれた。彼の父は、理由は明らかではないが、地方長官に捕えられ、家を焼かれ他の家族も行方不明となったが彼は逃げ延びた。父が牢獄で死亡したのを知ると、復讐を誓い、馬賊(流賊)の集団を率い、地方長官を襲い家族もろとも殺した。その後日露戦争(1904~05)の際には神聖天皇主権大日本帝国軍と協力して戦い、戦争後は大日本帝国政府軍から譲り受けた近代的兵器と装備によって東三省総督趙爾巽に帰順。16年奉天督軍となり、19年に東北三省の実力者となり奉天軍閥を形成した。その後大日本帝国政府軍の支援を得けて他の軍閥を倒し北京政界を支配し、27年には北京で大元帥となった。しかし、1928年6月、張作霖は蒋介石国民政府の第2次北伐軍との戦いに敗れ、根拠地である奉天へ戻ろうとした時、いわゆる「奉天事件」で命を奪われた。6月4日午前5時30分頃、京奉線(北京~奉天)の上に立体交差して満鉄線鉄橋が架かっていた場所を、張作霖を乗せた京奉線の列車が通った時、満鉄線が爆破され、満鉄線の重い鉄橋の一部が張作霖の特別列車の上に落下し、完全に粉砕した。張作霖はこの車両ではなく、前方の車両におり随行していた将軍と話し合っていた。しかし、この車両も爆弾の破片で大損害を受け、将軍は即死し、張作霖も重傷を負い、自動車で自宅へ運ばれたがまもなく死亡した。首謀者は神聖天皇主権大日本帝国陸軍関東軍河本大作大佐で、河本は張作霖爆殺により東三省満州)における大日本帝国政府の勢力拡大を狙う綿密な計画(陰謀)を立てていた。爆破作業の実行者は東宮鉄男大尉らであり、中国人苦力2人を殺して死体を横たえ彼らの仕業と見せかけようとした。

 1931年9月18日には関東軍は「柳条湖事件」(満州事変の発端)を起こした。中国革命の東三省波及を好まず、軍事占領を画策していた参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、奉天特務機関長土肥原賢二大佐らが計画した陰謀であり、奉天郊外の南満州鉄道(満鉄)線路で小さな爆発事件を起こし、これを張作霖の跡を継いでいた張学良軍の仕業であるとして直ちに奉天を占領し、直ちに全面的攻撃を開始し満州事変に突入した。

(2025年2月23日投稿)

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