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「天声人語」電気代など光熱費値上げ・豆炭あんか・政府の節電要請に戦時下のフラッシュバック

2025-01-06 12:53:28 | メディア

 2022年11月30日の朝日新聞「天声人語」を読んで、戦争中の朝日新聞記事の国民への「書きぶり」とよく似ているのをふと思い出した。

 天声人語には、「余計な明かりを消す。重ね着をする。すぐできる事はいくつもある」とあるが。さて、戦争中の朝日新聞の記事をいくつか紹介しよう。

➀昭和17(1942)年10月11日「食物総力戦、イナゴの食べ方」

「秋のハイキングにはイナゴを捕って大いに食べよう。蝗は虫偏に皇と字があてられて虫の中での王とされているのも、つまりは蝗が食べられるからである。エビに似た味でビタミンA、Dを多量に含んでいる。捕えた蝗はザルに入れ布をかぶせ熱湯をかけ、水洗いし、天陽で乾す。油で煎りつけて食べてもよければ、醤油で煮つけて食べるもよい。あるいは陽に乾してすり潰して粉にして御飯にふりかけたり、味噌汁の中へ入れて食べる。そのまま澄まし汁の中に入れたものは蝗の姿が見えて食べにくいが、粉にして味噌汁に入れれば十分食べられるうえ、蝗の全身を乾かして粉にしたものはカルシウムに富む。」〈陸軍航空技術研究所川島四郎大佐談〉

➁昭和17年10月25日「食物総力戦、砂糖代用に柿の皮」

「例年ほどではないが、今年も柿がいくらか出回りはじめている。柿の皮は多く捨てられて顧みられないが、柿の皮を砂糖代用として用いる事は古くから行われている事で、大変甘く糖分が約50%あるから砂糖の甘さが得られる。その最も簡単な方法は、むいた柿の皮から、そのまま甘味をとる事で、ニンジン、ごぼう、里芋などの野菜類と一緒に鍋の水の中へ柿の皮を入れ、出汁のようにして5分か10分煮出す。すると柿の皮の糖分がみんな湯に溶けてしまうから、大体溶けたところで柿の皮だけ出して、これに醤油などの調味料を加えて煮つければよい。柿の皮を出した後で調味料を加えないと柿の皮に味がついて、それだけ調味料が不経済になる。しかし、柿の皮は生の時よりも乾かした方が水分が少なくて甘味を感じるから、陽に乾してすり鉢ですって粉にして用いると保存もできて便利である。」〈日本女子大食物室〉

③昭和19(1944)年4月30日「〝藁うどん〟の腹でさあ出炭、鶴嘴戦士に贈る変わった決戦食」

「藁うどん、藁のパンといっても牛や馬の餌に用いる生の藁ではない。稲藁を粉末にして適当な科学的処理を加え、あらめ(こんぶ科の海藻)やかじきなどヨード分の濃厚な海藻や小麦粉を混ぜて作った新決戦食糧、名づけて「瑞穂麺」、「瑞穂パン」が炭鉱の北九州を舞台に代用食時代の脚光を浴びて登場した。原料藁の入手もこのほど試食をした内田信也農商相も「せめて九州の鶴嘴戦士だけでもうんと食べて貰いたい」と考慮を約したとあるから、栄養価値はともかく、文字通り米の成る木の牛飲馬食(多量に食べる意)で満腹感を味わえる日も近いものとみられる。」

という具合であるが、戦争末期には、「蝸牛(カタツムリ)や井守(イモリ)も結構戴けます」との見出しも登場した。

(2022年12月2日投稿)

 

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司馬遼太郎「坂の上の雲」の目的は歴史事実の書換、NHKテレビ放映は国民への刷り込み

2025-01-06 12:50:09 | メディア

※司馬遼太郎記念財団が2023年1月11日、生誕100年を迎えて、好きな作品のアンケート結果を発表した。トップ3は『坂の上の雲』『竜馬がゆく』『燃えよ剣』であったという。しかし、『坂の上の雲』の内容は歴史事実を伝えたものではないし、歪曲したものでもある事を承知しておくべきであり、正確な歴史を知ろうとする人は研究書によるべきである。

 『坂の上の雲』については歴史の事実を歪めた問題作として批判本がたくさん出版された。さらに、そのように批判されたものでありながら、1996年司馬氏の死後、NHKテレビが、「韓国併合」100年前後の2009年から2011年までの3年間も、放映し続けた過去があり、それに対する批判も起こった。にもかかわらず、2020年7月22日朝日新聞「時代の栞」が取り上げていた。見出しを「小説の枠を超え歴史観に影響」「明治期の軍人と政治家のリアリズム」などとして。記事内容は総花的で色々網羅し支離滅裂的で、朝日新聞として『坂の上の雲』の内容がかつてどのような問題点を指摘され批判が起きたのかを具体的に示そうとしたものではなく、また、かつての批判の重視すべき点を、読者に具体的に分かりやすく伝えようとする使命感や責任感を感じさせるものではなかった。「物語」として創作する司馬氏の力量が優れていると讃えるものであったり、彼の歴史認識やこの作品への「批判」をかわす事を意図しているためなのか、司馬氏本人のものの見方考え方や言葉に基づかず無視して、手前勝手な主観的なピントの外れた決めつけ思い込みによる「作品」への称賛の批評などであった。これでは読者(主権者国民)は歴史認識を培う上でこの記事から得るものは乏しく、結局「ただのゴミ」記事でしかない。

 司馬氏は「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書き、「あとがき」には「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい。事実100%だ」と書いている。しかし実態は、歴史の事実を書き換えたり書かなかったりして捏造したものを歴史事実であると強弁したのである。そしてまたその事については晩年、たとえば「自分の韓国の描き方にははっきり問題があった」とする文章を残している。またそれに関連して司馬氏は、「自分の『坂の上の雲』は映像化しないように」と強い遺言を残していたのであるが、NHKは放映したのである。これは偏向した政治的意図をもって行ったものと言って良い。

 さて、この作品は日露戦争をモチーフにしたもの(司馬本人は歴史事実と言っているが、捏造し美化したものである)でありながら、歴史上の大事件には触れていない(事実の隠蔽)。また、触れても書き換えている。それをいくつか紹介しよう。

 まず、「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書くが、明治天皇詔勅で「韓国自存のための戦争だ(韓国目的のための戦争)」としており事実と異なり、司馬氏は捏造美化している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が欧米列強から不平等条約を押し付けられた事は書いてあるが、帝国日本による朝鮮植民地化(韓国併合)の第1歩である江華島事件を軍事的圧力を背景に計画的に起こし日朝修好条規を押し付けた事については書いていないしNHKテレビ放映でも触れていない。

 日清戦争は、日本軍が朝鮮王宮景福宮を占領する事から始まるが、作品では王宮占領2日後の話だけを書いている。旅順市民虐殺について「作品」は「旅順は二度(日清・日露)にわたって日本人の血を大量に吸った」「日本は日露戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵法者として終始した」「日本兵は私有物を盗まなかった」「日本人が日清戦争や北清事変を戦った時、軍隊につきものの略奪事件は一件も起こさなかったという事が、世界中の驚きを誘った」と書いている。現実には1万人以上の市民を殺害し、欧米から批判を浴びたが作品はその事実を隠蔽した。

 三国干渉後、朝鮮政府(閔妃政権)はロシアに接近ため、それを恐れた神聖天皇主権大日本帝国政府は閔妃(高宗の王妃)虐殺事件を起こした。これは川上操六(陸軍参謀次長)が陸奥宗光や伊藤博文の了解を得て、三浦梧楼朝鮮公使に命じたもので、公使館守備隊を連れて景福宮に乗り込み実行した事件であった。ニューヨーク・ヘラルド紙などが批判報道したが、日本の裁判所は無罪とした。この事も「作品」では書いていない。NHKテレビ放映ではテロップで1行だけ流した。しかし、閔妃ではない写真を使用していた。また、NHK出版『坂の上の雲』ガイド本では、日本人の犯行であったにもかかわらず、韓国関係者の犯行であると解説し罪を頬かむりしている。

 日露戦争における日本海海戦については、「日本人が勝った。それをアジア人が喜ぶべきなのに喜ばなかった」と書いている。

 ポーツマス講和条約の第1条こそ、日露戦争の最重要の目的であったが、その第1条には「ロシアは韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認する」とある事からも、司馬氏のいう「祖国防衛戦争」ではない事は明らかであるが、「作品」はそれを読者や視聴者に欺瞞隠蔽している。

 また、日露開戦直後に大韓帝国(1897年国号を改めた)政府は局外中立声明を出したが、神聖天皇主権大日本帝国はそれを無視し、1904年2月「日韓議定書」を強要締結させ、「大日本帝国軍による領土使用」を承認させた。1904年8月には第1次日韓協約「財政・外交については、日本及び日本人の推薦する外国人を顧問として迎える事、また外交については日本政府と協議すべき事」を強要締結させた。また、1905年11月には第2次日韓協約で「韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の剥奪)、統監府(初代統監・伊藤博文)を設置」を強要締結させたが、「作品」は一切書いていない。

※韓国併合への経緯については別稿カテゴリー「朝鮮問題」を参照してください。

(2020年8月3日投稿)

 

 

 

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パラオ諸島ぺリリュー島(旧南洋群島)と沖縄県民

2025-01-06 12:44:24 | アジア・太平洋戦争

 2023年6月6日付朝日新聞が『激戦地 パラオはいま』で「ぺリリュー島」に関する記事を掲載した。今日、「ぺリリュー島」は「パラオ共和国(パラオ諸島)」(首都は2006年10月、コロールから、最大の島バベルダオブ島の東岸にあるマルキョクへ移転)のほぼ南端に位置する小島で、アジア太平洋戦争下で神聖天皇主権大日本帝国政府軍と米合衆国政府軍の激戦地となったところである。

 神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信政府は、1914年8月23日、第1次世界大戦に参戦(ドイツに宣戦布告)。第一次世界大戦が始まると、元老井上薫大隈重信首相に「今回欧州の大戦争は、大日本帝国の国運を発展させる大正新時代の『天佑』なので、大日本帝国は直ちに挙国一致の団結により、この天の助けを利用しなくてはならない」と伝えた。つまり、井上は国内で湧き上がっていた「廃減税等の党論」(第一次護憲運動〈1912年12月~13年2月〉以来の憲政擁護会は営業税・織物消費税・通行税を3大悪税として全廃を要求し、各政党も各種の廃減税法案を議会に提出していた)などの政治的危機を回避し、英仏露3国との友好関係を改善し、東洋に対する「大日本帝国の利権」を確立し、これを背景に辛亥革命後の中国政府を懐柔する、まさに国内外の課題(日本帝国主義の内外政における行き詰まり)を一気に解決する千載一遇のチャンスだと主張した。又、加藤高明外相は参戦理由を「日本は今日、日英同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場にない。……ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦」(真の理由は後半)すると主張していた。  

※「第一次護憲運動」とは:藩閥勢力の巨頭内大臣桂太郎の組閣に際し、政党(立憲政友会・立憲国民党)・新聞記者らの提唱で大会開催し、藩閥官僚政治打破と政党政治確立を目指した。1913年2月10日数万の民衆が政府系新聞社・警察・交番を襲撃し、翌日内閣総辞職に至らせた(大正政変)。

 1914年10月、海軍はドイツ領となっていた赤道以北のマリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島を占領。11月、陸軍青島を占領、さらに中国が指定した中立地帯を無視して超え、青島から済南間の膠済鉄道とその沿線の鉱山などドイツ利権を手に入れた。英国の日本艦隊地中海派遣の要請は拒否してきたが、寺内正毅内閣は、パリ講和会議(1919年1月~6月)で山東省のドイツ権益継承と赤道以北のドイツ領南洋諸島を大日本帝国領とする英国の支持を得て1917年2月、ドイツ潜水艦から連合国の商船を守る理由で地中海へ海軍を派遣(装甲巡洋艦1、駆逐艦12)した。1919年原敬内閣は上記の赤道以北の諸島を「南洋群島」(現ミクロネシア)と命名し、1920年にはヴェルサイユ条約に基づき国際連盟より大日本帝国政府の委任統治領(通貨:円、公用語:日本語、宗教:国家神道など)として認められ、アジア太平洋戦争敗北まで約30年間統治した。

 南洋群島とは、マリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島からなっていた。16世紀にスペイン人が渡来し、マリアナ諸島を領有。1885年、カロリン諸島(含パラオ諸島)をスペイン領と宣言。マーシャル諸島ドイツが領有。米西戦争の翌1899年、スペインはカロリン諸島(含パラオ諸島)マリアナ諸島ドイツに売却した。1900年時点で上記3諸島はすべてドイツが領有する状態となっていた。ただし、グアム島は1898年に米国がスペインから購入し米国植民地に。その後、第一次世界大戦を経て大日本帝国政府がドイツ領南洋諸島を領有したのである。統治のために1922年に南洋庁(行政官庁)を設置し、パラオ諸島のコロール島に本庁(首都)を設置し、サイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポーンペイ、ヤルートに6支庁を置き、小学校や産業試験場なども併設した。

 パラオ諸島を含む南洋群島には、砂糖やカツオ節生産のため、元の住民より多い8万人以上が日本から移住したが、6割以上が沖縄県からであった。移民の大きな理由は、本土の類似県より高い植民地的な国税納付額、貧しさ、県庁の奨励などであった。第一次世界大戦後の不況期(1920年の「戦後恐慌」には黒糖価格が暴落し、さとうきび栽培のモノカルチュアー経済が大打撃を受け、1927年金融恐慌、1930年昭和恐慌が追い打ちをかけた。)には沖縄県では、毒性のある「ソテツ」まで食べて飢えをしのぎ(ソテツ地獄)、海外からの送金が沖縄県を支えた。同時に、男性の多くの理由は徴兵忌避であった。当時、政府は海外在住者の徴兵を猶予した。実際は現地でも軍の動員はあったが。1936年の陸軍統計年報では、「外国在留」が理由の徴兵延期者は5万3819人であったが、沖縄県は9912人と全国最多であった。アジア太平洋戦争では沖縄関係移住者約5万人のうち1万人以上が亡くなった。ぺリリュー島(屋久島とほぼ同じ面積)では、1944年9月15日から約2カ月間、米軍と激戦を繰り広げ、この戦闘を中心に南洋群島全体で日本軍1万6千人余が戦死した。

 戦後の南洋群島はどのような歴史を歩んだのか。

〇1947年4月2日、国際連合ミクロネシア(南洋群島)を6地区(マリアナ・ヤップ・チューク・ポンペ    イ・パラオ・マーシャル)に分割、米国政府の信託統治領とした。その後核実験に使用、54年ビキニ被爆事件起こる。

〇1965年、ミクロネシア議会が発足。

〇1978年、パラオは住民投票の結果、ミクロネシア地域の統一国家からの離脱決定。

〇1981年、パラオ自治政府発足、核貯蔵や持ち込みを全面禁止した非核条項を含む憲法公布。

〇1982年、米国政府自由連合盟約協定期間50年、国防・安全保障権を米国政府に委ねる代わりに経済援助を得る、また外交権・立法権は保障される)を締結。しかし、盟約は米国政府の核搭載艦船の寄港が可能で、憲法の非核条項と矛盾した。自由連合盟約は住民投票(75%以上の賛成が必要)で7回否決された。

〇1992年、住民投票で憲法改正案(憲法条項の修正は過半数の賛成で可能)が承認された。

〇1993年、住民投票で自由連合盟約が68%の支持で承認され、非核憲法が凍結され、米国政府との自由連合へ移行。

〇1994年10月、パラオ共和国独立達成、12月に国連加盟

〇1999年、台湾と外交関係樹立、米国政府と締結した自由連合盟約に基づき、国防・安全保障の権限を米国政府に委ねている。軍隊はないが、パラオ共和国国民は米国政府軍人に多数採用され、、イラク戦争にも参加した。

〇2006年10月、首都機能をコロールからマルキョクへ移転。

〇2008年11月、大統領選挙で、元台湾大使ジョンソン・トリビオン氏が当選。

(2023年6月9日投稿)

 

 

 

 

  

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ワイマール共和国の若者たちの指導者崇拝熱はどこへ向かったのか?

2025-01-05 21:55:05 | ワイマール共和国

 ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』を基にして上記について紹介しよう。今日、自公政権、特に安倍氏以降の自公政権の下で、日本の若者たちの政治的動向を観察するために参考となるかもしれない。

 ワイマール共和国の大勢の民主主義者は、指導者崇拝熱に惹きつけられていたが、イタリアファシスト党統領であったムッソリーニのエネルギーは、模範的なものに映った。ムッソリーニのような素質があるか否かが、ワイマール共和国の政治家の適性を占う物差しとなった。ドイツのムッソリーニになる事は政治家にとって、やり甲斐のある目標となった。ヒトラーはすでに1922年から自らを「ドイツのムソリーニ」として宣伝していた。

 指導者崇拝熱は、それまで民主主義派の各政党や政治家たちの古くさい政治スタイルにそっぽを向いていた若者たちも虜にした。「指導者原理」こそ、若い世代が何年間も待ち焦がれていたキーワードだったのである。若者たちは、経験豊かな指導者と、仲間意識で固く結ばれた共同体を、どの社会階層よりも切実に待望していたのだが、ワイマールの制度、組織はそのいずれも満足させてくれなかった。若い世代の圧倒的多数はワイマール体制をすでに見限っており、「老人と中年たちの共和国」には何らの帰属意識も持っていなかった。

 では、若者たちは民主主義諸政党を見限ってどこへ向かったのだろう。上記の状況が、1920年代初めの混乱期の置き土産である各党の準軍事的自衛組織に新しい生命を吹き込む事になる。例えば国粋主義の鉄兜団、あるいは国家社会主義の突撃隊(SA)、共産党の赤旗戦闘団、民主主義擁護を叫んで黒・赤・金三色のワイマール国旗を掲げる社会民主党系の国旗団といった組織である。これらの団体は、最も有効な政治参加の道を求めている若者たちの心を惹きつけようとして、それぞれのやり口で、民主主義に挑戦的な非知性主義と幼稚な軍国主義を、政治の場におおっぴらに持ち込んだ。彼らは、準軍事団体につきものの暴力に慣れ親しみ、国内対立を益々険悪なものにするのに力を貸した。

(2022年10月8日投稿)

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