つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

杉玉(酒林)はなぜ酒屋の看板となったか?

2024-12-30 15:22:06 | 文学・歴史

 朝日新聞2024年12月29日付『時時刻刻』の「酒造り 守るため」に、軒先に青々とした「杉玉」が「新酒の完成を告げている」との記事を載せていた。「杉玉」は「酒林」ともいうが、かつて「杉玉」は酒屋の「看板」だったのであり、また看板の「元祖」でもあった。記事には、その「杉玉」がなぜ「酒屋の看板」となっていたのかの説明がなかったので紹介したい。

 「」の「ヤニ」は、「フーゼル油」という油脂を含んでいる。この「フーゼル油」は「防腐作用」があり、酒屋はむかし「杉の新芽」をたくさん用意しておいて、「」に保存していたお酒が「腐り」かけると「杉の新芽」を漬け、腐るのを防いでいたのである。

 奈良県では酒屋はむかし、「大神神社」という酒造りの神様を祀る神社が売っていた「杉の新芽」で作った「杉玉」を買ってきて上記の作業を行ったのであり、酒屋のシンボルとなったのである。しかし、江戸時代になると、「寒造り」技術の確立と、保存や運搬には「」から「杉樽」使用へと変化するようになり、特別に「杉の新芽」を必要とする事がなくなったようである。

 ついでながら、「フーゼル油」は揮発性で、摂取すると「脳神経」をおかされて頭が痛くなる。お酒(日本酒)を「お燗」するのは、「フーゼル油」を揮発させるためなのである。

 お酒(日本酒)は、原料の米の「でんぷん」が分解され、でんぷん→ブドウ糖→アルコールと変化(発酵)してできる。この過程は、蒸した米に麹菌を繁殖させた「」を加える事で促進される。「」と「酵母」(イースト菌)の働きによる発酵は、暑いの方が早いため、中世では旧暦8月から各種のお酒が造られた。しかし、雑菌の侵入も多く腐敗しやすかった。江戸時代元禄期になると、冬季に発酵温度を比較的低温に保ち、雑菌の侵入を巧妙に制御する「寒造り」の技術が確立し、現在に至るまでお酒造りの主流となった。

(2024年12月30日投稿) 

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ワイマール民主主義の弱点と今日日本の野党の状況

2024-12-30 12:59:11 | ワイマール共和国

 今日、岸田自公政権に対して、野党が結集できない状況を解消するためには、時代は異なるが、かつてのワイマール共和国が崩壊しヒトラー政権の独裁を招く政治状況から、なにがしかの学ぶべき教訓を見つける事ができるのではないだろうか? 以下に、ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』の一部を紹介しよう。

「1933年1月31日、アドルフ・ヒトラー首相に就任した。その際、社会民主党幹部会のメンバーたちは、反ナチ統一行動に共産党を加えるべきか否かをめぐって思案に暮れていた。前日、ドイツ共産党の幹部ワルター・ウルブリヒト(共産党国会議員。ヒトラー政権後モスクワに亡命。戦後帰国して東独国家評議会議長)が社会民主党に対して、共産主義と社会主義の全勢力が結集して共同でゼネストを決行するよう申し入れてきていたし、リューベックではすでに両者による統一ストライキが決行されていた。だが、社会民主党指導部はウルブリヒト提案を拒否した。理由は、共産党側が両党和解のための「不可侵協定」を受け入れようとしないためという、従来の主張に沿ったものであった。(両党和解の予備交渉は前年、駐ベルリン・ソ連大使館で社会民主党側から党機関紙編集長のシュタンプファーが出席して行われたが、協定調印に至らなかった)。社会民主党は、この不可侵協定という踏み絵を突きつける事によって、これまで敵対関係にあった共産党との統一行動に踏み切るかどうかを決めようとしていたのである。協定によると、共産党は「社会主義ファッショ」などという社会民主党に対する憎悪に満ちた宣伝を中止する事が義務づけられていた。

 こうした共産主義者と社会民主主義者の兄弟げんかこそ、ワイマール共和国の民主主義の大きな弱点の一つであった。両者とも互いに相手をナチス以上に悪質な敵だと罵り合っていた。片や共産党が中身のない革命熱に浮かされて、社会民主党を反動勢力とファシズム勢力の先駆け役を果たしているとして敵視すれば、一方の社会民主党指導部は党内左派勢力を共産党に浸食されまいとして、声高に反共主義を叫んで敵対する、といった具合である。両党の敵対関係を物語る典型的な実例にこんなものがある。1928年から30年にかけての社会民主党首班内閣の際、国内の過激派の動向についての内相報告では、いつも監視対象は共産党であって、ナチ党を対象にした事は1回もなかった。そんな状況だから、社会民主党指導部はウルブリヒト提案に同意する気になれなかったわけである。」

(2022年10月4日投稿)

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東くめさんの初の作詞「鳩ぽっぽ」とそのきっかけ

2024-12-25 17:17:03 | 日本人

 東くめさんの事を朝日新聞2024年12月25日付「天声人語」が掲載した。

東くめさんは大阪府池田市室町2番丁929に住んでいた。「鳩ぽっぽ」の作詞者。

〇和歌山・新宮藩の家老職であった由比家に生まれた。5歳で父に死別、母の実家(新宮市馬場町2丁目3-6に宅跡)に引き取られた。

〇10歳の時、一家は来阪。川口居留地のミッションスクール・ウィルミナ女学校(後の大阪女学院)に通った。ここで米国人姉妹によるピアノの連弾に感動し音楽に開眼した。

1890(明治23)年、東京音楽学校(後の東京芸大音楽部)の選科に入学(13歳)。ピアノと唱歌を学んだ。

1896年、2番の成績で専修部を卒業。首席は幸田露伴の妹。大阪音楽大学の創立者永井幸次も同級生であった。くめさんはさらに1年間研究科に残った後、東京府立高女(後の都立白鴎高校)に音楽教師として勤務。その2年後、同郷で6つ年上の東京女子高等師範教授の東基吉さんと結婚した。

1901年春、くめさん23歳の時、東京神田の自宅で、付属幼稚園にも関係し、幼児教育に熱心だった基吉さんから、話し言葉の唱歌があってもよさそうなものだ(当時は文語体のものばかり、鉄道唱歌も、曲も外国製の借り物がほとんど)、といわれて最初に作ったのが「鳩ぽっぽ」(鳩ぽっぽ、鳩ぽっぽ、ぽっぽぽっぽと飛んでこい……)であった。

〇作詞は浅草の観音さま(浅草寺)の鳩を思い浮かべながら子どもの気持ちになりきって作ったという。作曲は東京音楽学校で2年後輩の滝廉太郎(豊後日出藩家老の家柄)に頼んだ。

〇滝とくめさんは名コンビで「水あそび」「お正月」「雪やこんこん」も2人の作品である。

1901年7月、東京芝の共益商社という書店から「幼稚園唱歌」という唱歌集を発行した。全20曲。12曲がくめさんの作詞で、作曲は1曲(ドイツ曲)以外はすべて滝のものである。どれも子どもに歌いやすく、適当な遊戯動作が加えられるように工夫しており、オルガンで弾けるように簡単で適切な伴奏も付けていた。基吉さんが自分の幼稚園で歌わせたところ、子どもたちは大喜びしたという。

は、ドイツ・ライプチヒに留学中病気になり帰国し、1903年、23歳で郷里大分で死去。

1906年、くめさんは教壇を去った後、自宅でピアノ塾を開いて音楽教育に専念した。

1917年、夫基吉さんが池田師範学校長に転任したのをきっかけに大阪府池田市に転居した。長男貞一さん(大阪音楽大学教授)・長女照子さん・次女吉田正子さんの兄妹は力を合わせて「ピアノ研究会」を主宰した。

1962年、出身地の和歌山県新宮市は、詩人の佐藤春夫さんについで2人目の名誉市民号を、大阪府池田市も文化功労賞を贈った。「鳩ぽっぽ」の歌碑は、JR新宮駅前、東京浅草観音境内、長野善光寺境内、池田市五月山公園などに建てられている。

(2024年12月25日投稿)

 

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初詣は神聖天皇主権大日本帝国(天皇教)が20世紀に入ってから広まった

2024-12-21 09:45:29 | 宗教

 初詣は、古代から続く日本の伝統文化であるように思っている人が多いが、それは大きな誤解である。実は神聖天皇主権大日本帝国が20世紀(1901年~)に入ってから、国家神道の浸透とともに、都市に住む人々において広まったものである。ちなみに、江戸時代の正月は「寝正月」といわれた過ごし方をし、基本的には出歩かず、家の中で静かに迎えるものであった。年神恵方からやって来ると考えられていたのである。

 明治維新後、神聖天皇主権大日本帝国政府の成立により、小学校や官庁から、皇室の元日行事「四方拝」に合わせた元日儀礼が始まった。子どもたちは元日から登校するようになった。官製の儀式と太陽暦施行から始まった正月元日の意味が、それまでの正月の社寺参詣を元日に収斂させ、人々は元日から出歩くようになった。恵方からやって来る年神を迎える習慣から、恵方にある神社に参詣する方がご利益があると考えるようになった。

 20世紀になると、東京・京都をはじめとする都市において、正月元日から官幣大社などに参詣する初詣が大衆的な定着をみせた。初詣という言葉もこの頃から使用され始めた。鉄道会社も大衆の娯楽として神社とタイアップして初詣の宣伝を繰り広げた。

 神聖天皇主権大日本帝国の精神的支柱として位置づけ作られた天皇教(国家神道)の国民への刷り込みも、初詣の広がりに大きな影響を与えた。そしてさらに、神道に相応しい国民的儀礼として、神前結婚・七五三詣・地鎮祭なども整えられた。またこれらの儀礼が神社の重要な財源となった。

(2020年1月7日投稿)

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明治神宮と神宮外苑競技場(新国立競技場の前身)の建設目的は天皇崇拝と天皇制国家への忠誠心(国家神道)の普及

2024-12-17 17:42:16 | 明治神宮

 明治神宮は、1920年に造営され、明治天皇とその皇后(昭憲皇太后)を祭神とする。アジア太平洋戦争敗戦までの国家神道(天皇教)の代表的造営物であった。造営に当たり、1913年、帝国議会の貴族院衆議院で建議案が決議され、同年勅令で内務大臣を会長として神社奉祀調査会を設置。翌年、皇后が亡くなり、合祀を内定。

 1915年5月、内務省は東京代々木を社地とする明治神宮の造営を告示。政府はこの造営事業を、明治天皇への国民の思慕を上から結集する、一大カンパニアとして盛り上げる方針をとった。全国各地の青年団による労働奉仕や、神仏各宗教団体の奉仕や全国的な10万本の献木運動を展開させた。工期6カ年、延べ110万余人の青年団員が奉仕し、国民の献金は総工費522万余円を上回る600万余円に上った。

 内苑は皇室の南豊島御料地、外苑は明治天皇大葬(葬儀)の際に斎場が置かれた青山練兵場であった。1920年11月に鎮座式を挙行し官幣大社(神饌幣帛料を天皇から支出)に列格。首都東京で最大の宗教施設となった。維持運営は、東京府、東京市、東京商工会議所明治神宮奉賛会の4団体で、東京の氏神的性格となった。1927年に制定された「明治節」(11月3日)と、正月を中心に、多数の参拝者があった。

 外苑には、1924年10月30日に競技場が竣工した。これが、現在問題となっている「新国立競技場」を建設しようとしている場所につくられた初代「明治神宮外苑競技場」である。奉賛会が発案したもので、その趣旨は「国民共は天皇の崩御後も互いに相和し相愛して、国家は益々繁昌しておりますという事を、御神霊の前にお見せ申し上げるため」という。

 そして、第1回明治神宮競技大会を開催した。これが敗戦後の1946年を第1回として2015年に70回目を迎えた現在の「国民体育大会」の前身となる。1943年の第14回まで実施されたが、1926年~37年までは明治神宮体育大会」、1939年~41年までは明治神宮国民体育大会と改称した。39年には日中戦争のさなかであり、太平洋戦争開戦前でもあるという事情で、競技内容も変化し、「白兵戦」や「土嚢運搬」など軍事教練的な要素を含んだ。1942、43年には明治神宮国民練成大会」(会長は東条英機陸軍大臣兼首相)と名前を変え、天皇への忠誠、強兵、国民精神総動員の徹底を目的とした「皇国民の練成のためのものとなった。

 敗戦後の第1回国体は、京阪神地方で発足し、「国旗掲揚」も「国歌斉唱」もなく、「天皇も参加しない」、手弁当で参加するという素朴な大会であった。

 しかし、この戦後の「国体」も46年の第3回福岡大会から、天皇と自民党が共謀して政治的に利用するようになった。天皇家に対しての国民意識(天皇教・国家神道)の洗脳を再開するのである。「天皇」「皇后」が「開会式」に参列、「天皇のお言葉を述べ、「天皇杯」「皇后杯」を「下賜するようにした。「天皇杯」は、東龍太郎会長(後の東京都知事)が「宮内庁」に求めたものであるが、宮内庁は「皇后杯」とセットで応じた。総合優勝県には「天皇杯」が、「女子総合優勝県」には「皇后杯」を与える事とした。これとは別に、「各正式競技男女成績第1位の都道府県」に授与する「国民体育大会会長トロフィー」がある。

 これによって戦後の憲法、民主主義を有名無実化するさまざまな問題が発生してくるのである。まず、「天皇」「皇后」の両杯の管理である。管理規定があり、「信託会社又は確実な金庫に保管する」と各都道府県に義務づけているのである。これは神聖天皇主権大日本帝国時代に、学校教育の基本として強制された教育勅語」(国家神道の教典)や天皇の御真影」(国家神道では「神像」にあたる)を奉安殿とよぶ耐火建築で神社形式の小神殿利用する管理方法と同様の意識に基づいていると考えられるものである。今日、日本のスポーツはプロ・アマ問わずすべてが、「天皇杯」「天皇賞」など天皇の存在と不可分になってしまった。

 また国体での国旗掲揚」「国歌斉唱についても、1997年の沖縄国体」での「読谷村事件後、全面完全義務化した。「日の丸は天皇家の氏神太陽神「天照大神」をシンボライズしたもので、天照大神の子孫現人神天皇が支配する神聖天皇主権大日本帝国政府の「国家神」であった。君が代は天皇の支配する世を賛美する歌である。

 戦後の日本社会は今日まで、一皮むけば、主権者国民が気づかないように、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国(神道国教)時代の現人神天皇崇拝の「国体」教義や天皇を頂点とする神社の中央集権的組織(国家神道=天皇教)がそのままそっくり残されて活動をつづけてきており、敗戦後70年をかけて今、自民党安倍政権は、その復権復活の実現をめざして機会をうかがっているのである。国家神道の復権は神聖天皇主権大日本帝国の復権にほかならない。その国家像国家理念は自民党の『憲法改正草案に示されているものである。

 ○自民党政権による大日本帝国(国家神道)復権政策の主な経過

 1958年、皇太子の結婚式に当たり、政府は皇室神道儀式である「賢所大前の儀」を天皇の「国事」とした。

 1960年、首相池田勇人が「伊勢神宮の神体ヤタノカガミの所有権は皇室にある」と主張。伊勢神宮内宮正殿に公的性格を認めた。

 1966年、2月11日を「建国記念の日」と制定。

 1978年10月、靖国神社が極東軍事裁判(東京裁判)A級戦犯14名を合祀。

 1979年6月、元号法公布。

 1989年1月7日、元号を「昭和」から「平成」と改元。

 1989年2月24日、昭和天皇の葬儀「大葬の礼」。

 1990年11月、今上天皇の即位式「大嘗祭」。

 1999年8月、「国旗・国歌法」成立。

 2006年12月22日、改正教育基本法公布(安倍政権)。第9条「宗教教育」第1項の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」という文言を「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」と変更している。これは、「皇室神道」「神社神道」(これを結合させたものが「国家神道」)の合法化を意図するものである。

 2014年10月2日、安倍首相が8名の閣僚をしたがえて、伊勢神宮式年遷宮「遷御の儀」に参列。これは伊勢神宮の遷宮儀式の国家儀礼化を狙うものである。また「靖国神社」への参拝や真榊・玉串料の奉納もすべて、かつての「国家神道」の行事に因んだものであり、「国家神道」の復権のため「国民教化」=洗脳を目的として行われている。

 日本国憲法の下での祝日制定も、当時の天皇や為政者は意図的に、神聖天皇主権大日本帝国・国家神道の祝祭日名称変更してそのまま残したのである。神聖天皇主権大日本帝国・国家神道下では、皇室神道が国家神道の基本を示す儀式とされ、国民教化を目的として「臣民」はすべてこの儀式に参加すべきものとされ、国民の祝祭日はすべて皇室神道の儀式にあわせて1873年以降制定された。それが、四方拝(1月1日→元旦)、紀元節(2月11日→建国記念の日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日→文化の日)、春秋の皇霊祭(春分の日、秋分の日)、新嘗祭(11月23日→勤労感謝の日)などであった。制定の際、それまでの日本人の祝日であった「五節句」「お盆」などは廃止(1873年)したため、国民から批判の声が上がった。しかしその後も、陸海軍関係の記念日を追加し敗戦を迎えた。

(2019年12月11日投稿)

 

 

 

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