ハッチがいた日常

夫は病死、仕事も辞めて被災猫ハッチと暮らしたけれど、10年で終わってしまった。これからは本当の一人暮らしの日々。

昨夜のTBS「東京大空襲 語られなかった33枚の真実」

2008年03月11日 13時35分41秒 | 日常

 昨夜、夫とTBSの東京大空襲をテーマの番組を見ました。ドキュメンタリーとドラマを平行して構成したなかなかの力作でした。
 生存者が当時の惨劇を証言するシーンでは、私にも覚えのある地名がたくさん出てきました。

 東京大空襲では、どれだけの人間が犠牲になったのか、あまり知っている人は少ないでしょうけれど、ヒロシマに匹敵するくらいの犠牲が一夜にして出たのです。アメリカのB29によるじゅうたん爆撃で焼き殺されたのです。その惨劇を語ってくれる生存者も少なくなりました。
 私の母も、東京大空襲の体験者でした。母は、今も母の実家がある江東区に家族と住んでいました。当時、祖母は産後まもない、あまり歩けない状態だったときいています。祖父は下町で八百屋を営み、長女は嫁ぎ、母が一番頼れる存在だったと思います。祖母をリヤカーにのせ、祖父は母を始め、叔父、叔母をつれて空襲を逃げ回ったそうです。そして、中和小学校に向かおうとしたとき、裸馬がそちらのほうから走ってきたので危ないと直感し、逆方向の猿江恩師公園に行って一晩明かしたそうです。アノ一体も一面、焼け野原だったはずです。隅田川に飛び込んだ人たちは熱風で焼け死に、コンクリートの小学校も大勢の死者が出たそうです。そのとき、母ははじめて人間の焼死体を見たといっていました。もう、その数があまりにも多くて、最初は本当に怖かったけれど、見るうちに慣れてしまったと言っていました。その後、祖父のつてで千葉に疎開し、それから愛知県に全員、移ったそうです。そこで母が父と出会ったわけですが、東京大空襲のときの話は、生前、よく聞かされました。あの地域で、家族全員が無事に生き残ったのは珍しかったそうです。

 あの当時、東京下町には標的となる軍事工場もなかったし、夫や息子を兵隊に取られた家族、高齢者や女性、子供しかいなかったはずです。それをわかっていながらの、一面焼き尽くすような作戦を計画したアメリカが、私は今も許せません。
 たしか、去年も同じことをこのブログに書いたはずです。

 昨夜の番組は、アメリカ軍のこの計画についても詳細に調べ、米軍関係者の証言も放送してくれました。そして、あのときに開発された兵器が、その後もさらに破壊力をつけていまも開発され続けていることに恐怖を感じます。クラスター爆弾、ナパーム弾、劣化ウラン弾、そういう、兵士以外の人間も殺す目的(もちろん、地雷も含みます)の兵器を持つことを、禁止するべきです。恐ろしいことに、自衛隊もクラスター爆弾を持っているのです!

 二度と、東京大空襲のようなことがあってはならない。そのために、どんな形でも、平和を守り続けなければならないのです。

 昨日の番組を字幕をつけて、アメリカでも放送してもらいたいものです。アメリカは、いまだに原爆展を許可しません。アメリカがやったことなのにですよ。被害を、現実を知るべきです。自分たちがやったことを見るべきです。見ないから、知らないから、その後も、ベトナム戦争、イラク戦争を起こしたんでしょ?許せないですね。

 武器も持たない一般市民を殺す権利は誰にもないはずです。

 いい番組を見ました。母も、きっと喜ぶと思います。

コメント
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