原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“字のきたなさ” よりも書かれている内容こそ肝心なのは当然!

2018年12月02日 | 教育・学校
 本日先程目にした朝日新聞「声」欄投書に、我が高校教員時代の思考とほぼ一致する文面を発見した。

 早速、以下に「『きたない字』に悩むあなたへ」と題する30歳高校教員氏によるその投書の一部を引用させていただこう。

 私の生徒にも読みづらいノートを提出する子が何人もいる。 でも、様々な事をメモし自分の意見を書き込んでいる素晴らしいノートもある。 読むのに時間がかかかるが、何に興味を持っているのか、どんなことを考えているのかが伝わり、「この子のために授業をしてきてよかった」「きちんと授業に取り組んでくれてうれしい」と思わせてくれる。 私も沢山コメントを書き、高評価で返却している。
 (以上、朝日新聞「声」欄の登校より一部を引用したもの。)


 私事に入らせていただこう。

 当エッセイ集バックナンバーにても公開しているが、我が高校教員時代にも定期試験内で生徒の意見を書かせる課題を毎回必ずや出題した。
 これが残念ながら、事前には生徒に不人気なのだが…。
 ところが、いざ試験で生徒達の私見を書かせてみるとー。  何と! 私とて予期せぬ”素晴らしい”ご意見の数々が届くのだ! 

 参考だが、私が高校教員時(1990年前後期)の定期試験の対象となった科目とは、「商業法規」「商業経済」「現代社会」等々である。
 我が教員ポリシーとして、それら科目の普段の授業内に必ずや時事問題を授業内容として盛り込んだ。
 思い出す範囲で当時のその事例を挙げるならば。 「コメの輸入自由化問題」「経済大国と称される日本だが人の暮らしが真に豊かと言えるか?」 「世界の人口が増加するとなぜ地球環境が破壊されるか?」等々、……。
 今現在この授業を公立高校現場で実施したならば「教員生命」が危ういのではないか?? との内容の授業を、我が勤務高校が“底辺高校”(失礼な表現をお詫びします。)である事をラッキーとして私は日々執り行っていたのだが…。

 ところが、定期試験に於ける生徒よりの自由解答が凄い! のだ。
 毎回定期試験の都度如何なる解答が寄せられるのか、それはそれは楽しみに待ち望んていた。
 とにかくその解答内容から想像するに、真面目に我が授業を聞いてくれている生徒達の多い事! 何だか“罪つくり”である感覚すら抱かされたものだが。
 そんな生徒達が卒業後もきっと、“自分のポリシーを持つべき!”との我が教員としての主たる方針に影響を受け、個々の人生をエンジョイして生きている事に期待したいものだ。


 生徒の「字」に話を戻すならば。
 小学校教員の立場ならば、そのノルマの程が大きく違うだろう。
 片や高校教員の立場としては、とにもかくにも生徒の「字」の美しさよりも何よりも、生徒個々人が将来に向けて描ける「ポリシー」を育む土台を形成する手助けをすることこそが最大の任務ではなかろうか。
 その意味で、上記朝日新聞「声」欄に投書された若き高校教員氏の投稿内容に共感させて頂いた次第だ。


 それにしてもだ。
 この私の“直筆”の無残さといえば、筆舌に尽くし難いものがあるのだ。

 これに関して、2018.08.08 公開の「私も絶対的に鉛筆派!!」 なるエッセイにて綴っているため、少し反復させて頂こう。

 表題には「私も絶対的に鉛筆派!」と銘打ったが。
 より正確に言えば、普段の筆記は絶対的に「パソコンキーボード派」だ。
 20代後半頃より仕事上、業務用ワープロ(富士通oasisの立派な業務用ワープロだったが)に馴染み、それ以降しばらくワープロ派だった。
 28歳時に英文タイピング技能検定2級を取得した。 この技能は、後々までも私に恩恵を与え続けてくれている。 (中略)
 この我が“キーボード高速打ち能力”が、その後私自身の直筆力に暗いシワ寄せを招いてもいる。
 20代後半期より既に30数年の年月、キーボードにて筆記を依存してしまっている私の手が、「直筆」に馴染まなくなってしまっているようなのだ。
 どうやらキーボード高速打ち速度に対応して、直筆の場合も我が手が高速に動こうとする感覚があるのだ。 
 そんな「直筆」苦手の我が一番の応援者が、鉛筆だ!  鉛筆こそは、私を裏切らない。
  元々“左利き”との事情もあるだろうか?? 一旦右手が「直筆」から遠ざかった後のブランクが30数年と長いため、今更ながら右手での直筆が苦手なのかもしれない… 
  それ程に我が右手での「直筆」は悲惨であり、深刻でもある 
 今尚重要案件で相手がボールペンを私に手渡し、これでここにサインして下さい、と言われると!
 実際ミミズしか書けない身にして、本気で困惑するのが実情である。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 我が国日本に於いては、「書道」なる素晴らしい伝統文化が息づいている事実が絶大なのだろう。
 
 現代の「キーボード」等々のIT時代に移ろいだ後も、我が国に於いては「直筆」の美しさを庶民にも要求する実態が余儀なくされる事態を今尚経験する。
 例えば、国内宿泊ホテルでは必ずや「ここにサインして下さい」と言いつつ、ボールペンを手渡される。
 あれ程恐怖の時は無いと言える程の“みすぼらしい”直筆サイン”しか出来ない私だ…

 一方、今夏に訪れた米国のホテル対応は一切異なった。
 IDチェックのみで、何らの「手書き」書面作成をも要求されなかった。 (これぞ、もっと恐怖とのご意見もあるやもしれないが…… )


 とにもかくにも「直筆」超苦手の我が心理としては、私が書いた直筆のみで我が能力すべてを評価するのはどうかやめて欲しい、との…… 
 実に貧弱な今回エッセイの趣旨だが…。