原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

毎年新年度の4月になると我が脳裏に蘇る“情景”がある…

2020年04月02日 | 人間関係
 今年の4月は世界中が“新型コロナウィルス肺炎”騒動に巻き込まれ、「新年度」へったくれも無い大混乱状態を余儀なくされているが…


 昨日のテレビ報道によれば、日本各地の職場にてコロナウィルス感染から身を守るべく工夫した「新入社員入社式」が執り行われたようだ。 
 ある企業は「個別入社式」を採用していた。  新入社員皆が2メートル程間隔をあけ、一人一人が個別に社長に挨拶する姿が印象的だった。
 それでも曲がりなりにも「入社式」を執り行って貰えた事実が、新人にとってはラッキーかつ感激の風景だった。



 表題のテーマに入ろう。

 今から40年少し前の我が新年度を迎えた春の日を、私は一生忘れる事は無い。

 そんな我が心情を綴った2008.04.24 公開バックナンバー、「旅立ちの日の情景」を、以下に要約引用させていただこう。

 時候的には少しずれたが、何十年も経過した今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ情景がある。
 それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒入社で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。

 東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。 (私の父は自宅庭の造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
 出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積込みに難儀した。 そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
 さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
 もう出発しなければフェリーの時間もある。 どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
 やっと母が玄関から少し顔を出した。 その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。 泣きはらした顔をしているのだ。 定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半(2008年当時)の今尚気丈な母だが、普段は決して人前では涙を見せないそんな母が、私の出発準備を終えた後、陰で泣きはらしていたのだ。 旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。 それでも私が旅立つ姿を一目見たくて、玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
 あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。 母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。 それでも今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
 父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。 もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。

 フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。 当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。 お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。
 フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。
 父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。

 そして父が田舎に帰る日がやって来た。 どうしても父との別れがつらい。 心細い。 朝から泣けてしょうがない。 後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に訴えるのだが、父には仕事もある。
 実は私の東京行きを直前まで大反対した父だった。 そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
 後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。 アパートの部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生に於いて最高に忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
 そんな父も、もう他界している。

 こうして私の東京での初めての自立生活がスタートした。
 父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。
 この東京で強く生きていかねば!、とその日の午後早速出かけることにした。 ターミナル駅まで電車に乗って出かけ、パルコで洋服等の買い物をしたことを憶えている。

 あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
 
 (以上、2008年4月バックナンバーより引用したもの。)



 今現在(2020年4月時点)の記述だが。

 その後更に年月が流れた。

 上記記載のごとく、実際私を荷物と共に東京まで軽トラで送り届けてくれた我が父は既に他界し。
 出発の日に私に“涙を見せん”と玄関から顔を出さなかった母も、今となっては自立支援施設暮らしの身だ。

 年月の長さをしみじみ思う…
 このエッセイを記した直後期からしばらくは、毎年これを読み返すと自ら号泣していたものだ。

 それが今になっては(亡くなった父はともかく)、母に関して何でこれ程までに“嫌な人間”に変わり果てたのか?… との感覚しか抱けないでいる私だ…。

 あの時ですら、未だ若き私の東京移動作業を父に一任した母だ。
 それ程までに、我が母にとって次女の私は“放っておいて育つ子”だったのだろう。

 そう言えば、現在東京等大都市部で“コロナウィルス感染”が激増化している状況下に際し、郷里の母から何らの心配リアクション連絡も無い。
 おそらく如何なる状況下に於いても、「あの子(次女の私のことだが)は“放っておいて大丈夫!”」と一生に渡り信じている母なりの対応だとも思える。

 それを「幸い」と解釈するべきなのでもあろう…