本日午前中に公開した「本日トータル閲覧数が500万…… 」のエッセイだが。
あれを執筆せんとしたところ、何故かgoo編集画面へログイン不能となった。
その後gooの文面指示に従い、パスワードを変更してみたりあれこれと苦労させられた。 結局やっと昼前になってgooの編集画面を開くことが叶い、昼食前の多忙な時間帯に慌てて綴り公開したのが、前エッセイである。
これも、「コロナショック」の片鱗か??
要するに、ブログ編集画面にその許容量を超えるブロガーが押し寄せて大混乱状態となったのか?? と思ってみたりもしたのだが、皆さんは大丈夫でしたか?
そんなこんなで、もっと長文にする予定だった午前中に公開したエッセイの続編の形で、次なるエッセイを綴らせていただこう。
「原左都子エッセイ集」開設直後期の2007.09.15に、私は「ブログ私観」と題するエッセイを公開している。
(参考だが「私観」とは原左都子が作った造語である。 「私見」では軽い、「私論」と言うほどの学術性は無い、ならば「私観」はどうか? この方がややグローバル性が表現可能かもしれない、と考えて作った造語だ。)
これを読み直すと実に面白いことに、私はブログ開設のたった1週間後にブログという媒体に関して悩み始めていたようだ。 😵
以下にその様子を再掲載することとしよう。
ブログ「原左都子エッセイ集」を開設してちょうど一週間が経過した。 「たかがブログ、されどブログ…」の書き出しで始めたこのブログであるが、わずか一週間で、開設前に抱いていた私のブログに対するイメージが大きく変化している。 そこで今回は、現在の私のブログに対する私観を述べることとしよう。
ブログとは「日記型個人ホームページ」である。 すなわち、個人が日記(その他諸情報)をホームページに自由に綴り、見たい人が自由に閲覧できるというシステムである。 「日記」とは本来プライベートなものである。 にもかかわらずそれを積極的に公開したいという心理の持ち主がブロガーとなるのであろう。 実際に公開されているブログを覗くとその内容は純粋な「日記」は現在ではごく少数である。 私のブログの趣旨が自己のオピニオンの公開であるように、ブロガーそれぞれがご自身の何らかのポリシーを公開されようとしているのであろう。 今やブロガーは怒涛の勢いで増えているようだが、gooだけでも80万人を超えているということは、私の概算ではブロガー総数はおそらく国民の1割を超えているのではないか(?)と推測される。
さて、私は今回このブログを開設するまで、ネットでブログを検索することはほとんどなかった。 開設後は、自分の記事と同じキーワードで検索できるブログやアクセスランキング上位のブログ等を、時々参考のために訪問させていただいている。 全体的な印象を述べさせていただくと、軽いノリの“お遊び的”なものや、マニアックなものが多いように感じる。 一見軽そうでもその中にすばらしい文化の芽が内在していたりすることもあり、決して“軽さ”や“お遊び”を否定する訳ではない。 また、マニアックなものは見る人が見れば大きな共感力があるのだろう。 ただ残念に思うのは、全体的に概して“内向的”で、閉鎖的な印象すら受けるのである。 (「ひとりで楽しんでいるんだから、勝手に入って来ないでよ。」と言われている感じのするブログさえ多い。)
ブログのひとつの使命が情報の“公開”であるのに、今のブログはこの特性が真に活かされていないのではないかという点を私は懸念し始めている。 このせっかくの公開性を活かすには、ブログの内容に全体的にもう少し“公共性”が欲しいように感じる。 “公共性”と言うと大袈裟なので“外に向かって発信する力”と言い換えた方がより適切かもしれない。 ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、このような見解を述べると反論もあるかもしれない。 ただ、私の見解も決して自由度を妨げようとするものではなく、この“自由度”に加えて“外に向かって発信する力”も備われば、公開力のあるブログとなると思うのだ。 それともそんなつもりは元々なくて、ひとりで、あるいは仲間内だけで楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
ともあれ、我がブログは開設後わずか1週間である。 今後、どのように変貌していくか自分でも未知数であるが、自己のオピニオンの公開をテーマに、さらに日々エッセイを綴っていくことにしよう。 たかがブログ、されどブログ…である。
ブログとは「日記型個人ホームページ」である。 すなわち、個人が日記(その他諸情報)をホームページに自由に綴り、見たい人が自由に閲覧できるというシステムである。 「日記」とは本来プライベートなものである。 にもかかわらずそれを積極的に公開したいという心理の持ち主がブロガーとなるのであろう。 実際に公開されているブログを覗くとその内容は純粋な「日記」は現在ではごく少数である。 私のブログの趣旨が自己のオピニオンの公開であるように、ブロガーそれぞれがご自身の何らかのポリシーを公開されようとしているのであろう。 今やブロガーは怒涛の勢いで増えているようだが、gooだけでも80万人を超えているということは、私の概算ではブロガー総数はおそらく国民の1割を超えているのではないか(?)と推測される。
さて、私は今回このブログを開設するまで、ネットでブログを検索することはほとんどなかった。 開設後は、自分の記事と同じキーワードで検索できるブログやアクセスランキング上位のブログ等を、時々参考のために訪問させていただいている。 全体的な印象を述べさせていただくと、軽いノリの“お遊び的”なものや、マニアックなものが多いように感じる。 一見軽そうでもその中にすばらしい文化の芽が内在していたりすることもあり、決して“軽さ”や“お遊び”を否定する訳ではない。 また、マニアックなものは見る人が見れば大きな共感力があるのだろう。 ただ残念に思うのは、全体的に概して“内向的”で、閉鎖的な印象すら受けるのである。 (「ひとりで楽しんでいるんだから、勝手に入って来ないでよ。」と言われている感じのするブログさえ多い。)
ブログのひとつの使命が情報の“公開”であるのに、今のブログはこの特性が真に活かされていないのではないかという点を私は懸念し始めている。 このせっかくの公開性を活かすには、ブログの内容に全体的にもう少し“公共性”が欲しいように感じる。 “公共性”と言うと大袈裟なので“外に向かって発信する力”と言い換えた方がより適切かもしれない。 ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、このような見解を述べると反論もあるかもしれない。 ただ、私の見解も決して自由度を妨げようとするものではなく、この“自由度”に加えて“外に向かって発信する力”も備われば、公開力のあるブログとなると思うのだ。 それともそんなつもりは元々なくて、ひとりで、あるいは仲間内だけで楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
ともあれ、我がブログは開設後わずか1週間である。 今後、どのように変貌していくか自分でも未知数であるが、自己のオピニオンの公開をテーマに、さらに日々エッセイを綴っていくことにしよう。 たかがブログ、されどブログ…である。
(以上、本エッセイ集2007.09公開バックナンバーより再掲載したもの。)
あれから12年8ヶ月の年月が経過し、本日我がエッセイ集「トータル閲覧数」が500万PVを記録した。
“ブログの公開性”。 これは今現在尚この世に私が一(いち)ブロガーとして存在するに当たり“心せねばならない”重要なキーワードであることには間違いない。
ただ、上記で述べている「公共性」に関しては、やや大袈裟か、あるいは現在のブログ全般が持つイメージとしては“場違い感”が否めない概念であろう。
上記バックナンバー内で記している文章を今一度繰り返すならば。
一見軽そうでもその中にすばらしい文化の芽が内在していたりすることもあり、決して“軽さ”や“お遊び”を否定する訳ではない。 また、マニアックなものは見る人が見れば大きな共感力があるのだろう。
ただ残念に思うのは、全体的に概して“内向的”で、閉鎖的な印象すら受けるのである。 (「ひとりで楽しんでいるんだから、勝手に入って来ないでよ。」と言われている感じのするブログさえ多い。)
正直申し上げて、ブログ開設後長き年数が流れた現在尚、私は当時同様の「私観」を抱かされる機会が後を絶たない。
厳しい発言をするならば、個人的な日記であるならば「公開」の必要はないはずだ。 個人的に親しい人とメールのやりとりでもすれば済むとも考える。
ただそれでも尚ブロガー達が「公開」を目指すのは、やはり自らが発信するブログに「社会性」が伴うことを期待している故であろう。
そのような観点から我がブログ公開直後より2020.04の現在に至るまで、私め原左都子のブログに対するポリシーには何らの変化も無い。
その事実を、本日の「トータル閲覧数500万」達成が気付かせてくれたようにも思う。