65歳以上の高齢年齢層に現在送付されている「3度目のコロナワクチン接種券」が、私の手元にも届いた。
私の場合、予防接種に関してはあくまでも“慎重派”であり、決して積極的に摂取しようとは考えていない人間である。
1,2回目のコロナワクチン接種の際にも大いに悩んだ。
結果としては接種したのだが、2度目の接種後に38度の発熱があり丸1日寝て過ごす羽目になった。
3度目もやはり同じく慎重に考えたのだが。 副反応が出ても発熱程度で済むだろうか?との安直な考えの下、大規模接種会場へ予約を入れた。(接種券が届いた当日に個別接種会場は既に満杯だった。)
さて、本日付朝日新聞「社説(余滴)」のテーマは 朝日新聞社 科学・医療社説担当者・行方史郎氏による「あいまいな日本の努力義務」だった。
早速、以下に一部を要約引用しよう。
5~11歳を対象にしたコロナワクチン接種が3月にも始まる見通しだ。 社説では「接種率の向上を目的とするような運用にしてはならない」と書いた。
焦点になっていた大人と同じく接種の「努力義務」を適用するかについて、厚労省は当初、見送ることを決めた。 ただ、この規定のわかりづらさに未だ釈然としない思いでいる。
予防接種法9条には「接種を受ける努力義務」とあり、対象者は「接種を受けるよう努めなければならない」と定められている。 コロナワクチンは臨時接種に該当する。
何が義務で何を努力すればよいのかがあいまいだ。(中略)
先の条文を素直に読めば「義務」は「接種を受ける努力」を受ける。 さらに子どもの場合、努力義務が課せられるのは保護者の方だ。 条文には「必要な措置を講じるよう努めなければならない」とあるが、それが何なのかは定かではない。
10日にあった会議の終了後、厚労省の担当者からは、法律制定時の精神からできた「あくまでも訓示規定」との説明があった。
戦後まもなく日本の予防接種制度は「罰則付き義務」で始まった。 それが94年には「義務」が廃止され、「努力義務」となった。 とくに94年の法改正後は決定的な転換点とも言われ、副反応をめぐる集団訴訟で国が敗訴してことが背景にある。
個人の意思を尊重していると理解するが、義務という言葉の響きは重い。 このようなややこしい規定が果たしてどこまで必要なのか、いっそ根本から問い直した方がよいのではないか。
(以上、朝日新聞「社説・余滴」より要約引用したもの。)
以前にも記載したが、私め原左都子は(予防接種も含めて)すべての医療行為に対して慎重派の立場を一貫している。
1993年生まれの娘に関しては、予防接種を受けるか否かに関してずっと母親の私が判断してきている。
我が娘が小学校2年生時に「ツベルクリン判定」があった。
その判定の日に娘が当時持病の不明熱を出してしまい、学校での判定が叶わない、との事件があった。
親の私が見たところ「陽性反応」と判断して、それを学校へ訴えたのだが。
悲しいことに学校側の措置は「今一度専門機関へ行って、判定を受け直す必要があります。」
これに激怒した私は、元医学関係者であることを告げて担任ととことん議論を重ねたものの。 どうしても「判定やり直し」との結論が学校側から出され、やむなく(学校は出席扱いで)その専門機関へ娘を連れて行かされた。 その後の判定はやはり「陽性」で一件落着したものの。
今尚忘れ得ぬ事件である。
そもそも、未だ幼き娘の体内に2度もツベルクリン反応液を注入されたことが許し難かった。 幸い、娘はその後何事も無く経過したのだが。
(参考だが、娘の持病だった「不明熱」は、その後も中学2年生頃まで定期的に続いた。 それに関しては、ツベルクリンとは無関係と判断しているが。)
話題を、現在我が国で実施されている「コロナワクチン」に対する“努力義務”に戻そう。
実際分かりにくい言葉だ。
特に幼き子どもがいる家庭にとって、この”努力義務”との文言を如何に解釈するべきか、頭が痛いことであろう。
ただそれを真面目に考え、自分は接種をするか否かを判断している方々はおそらく救われるような気もする。
などと無責任な発言を元医学関係者がするべきでもないが。
とにもかくにも、この「努力義務」の解釈を個人個人が慎重に行って後に、コロナワクチン接種に挑んで欲しい思いだ。