原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「変わらない」ことを望む現代の若者群像

2022年02月03日 | 時事論評
 朝日新聞2022,01.30付 フォーラム「意識高い系の憂鬱」と題する記事内の、筑波大教授 土井隆義氏による「動かぬ若者にも罪悪感」を、以下に要約引用しよう。


 今の30代以下は、「努力したって社会は変わらない」と思う人が多い世代だ。 日本の一人当たりの国内総生産(GDP)が右肩上がれ位から平らに変わるのが1990年代。 それ以降に思春期を迎えた世代は経済の成長期に比べ、努力しても結果が返ってくる実感が少ない。
 野心的でなく、よく言えば洗練されている傾向がある。 年金問題や少子化、気候変動など取り巻く社会課題は多いのに、変えられないから自分がそれに対応しようと防衛的になる。 年金制度を変えるのではなく、貯金をしておこうと考えるわけだ。
 経済成長のない社会で、若い人は将来が今より素晴らしくなるとは思いづらく、変わるとすればむしろ悪くなると考えてしまいがちだ。 だから、変わらないことを望む。 選挙では政権が変わることより現状維持を選ぶことに安心感を覚えるのだ。 (中略)
 今の若者は、考え方が違う者同士でも個性の違いを認め合い、互いの領分をわきまえてすみわ分けを図る。 ただ、すみ分けが良いとは思わない。 違う価値観の人に対して無関心であることは結局分断を招き、社会的な孤立を生みやすい。
 動かない側の若者も、動こうとする人を馬鹿にしている感じはしない。(注略)
 日本は格差が広がっているとはいえ、諸外国に比べてまだまだ豊かで生きやすい社会だと感じている若者は多くいる。 どうせ社会は変わらないだろうし変えようとも強くは思わないという若者の意識は、当面このまま続くのではないだろうか。

 (以上、朝日新聞 フォーラム「意識高い系の憂鬱」より一部を引用したもの。)



 私見に入ろう。

 原左都子が「若者」と言えそうな世代と接する機会を得たのは、高校教諭を職業としていた今から30年以上前の時代だ。
 その頃の若者達とは、その生き様や行動様式が私の青春期とはまるで異なっていたように記憶している。
 とにかく素直な子たちが多かった記憶がある。 教員の私にすぐに懐いてくれて、楽しい日々を過ごせた時代だったと振り返る。
 底辺校(失礼な表現をお詫びするが)だったせいか、社会問題を議論する等の経験を持てなかったが。 その頃から反逆生徒など一人もいない時代へと、既に移り変わっていた記憶もある。

 上記土井氏の記述内に書かれている、「年金制度を変えるのではなく、貯金をしておこうと考えるわけだ。」
 これなど昭和生まれの私とて、バリバリその派だなあ。
 これには政治に対する諦め感も国民間で強靭、との理由が大きいのではあるまいか?

 ただ確かに私が青年だった時代背景とはまだまだ古き良き時代であり、競争が根付き、頑張れば救われた時代背景だったかもしれない。
 
 GDPが右肩上がりの時代から平らに変わるのが1990年代。
 確かにこの頃から“競争を好まない”世へと移ろいだ記憶がある。

 「変わらない」ことを望む現代の若者群像。
 それはそれで、長所も多いことだろうが…

 上記引用文最後の部分を繰り返すと。
 日本は格差が広がっているとはいえ、諸外国に比べてまだまだ豊かで生きやすい社会だと感じている若者は多くいる。 どうせ社会は変わらないだろうし変えようとも強くは思わないという若者の意識は、当面このまま続くのではないだろうか。

 昭和生まれの私としては、つまらない時代になってしまったような感もある。