本日のエッセイも朝日新聞記事よりの引用だが。
朝日新聞2022.02.17付「隠岐さや香氏による まったりアカデミア 100年前は一昔?」と題する記事を、以下に要約引用しよう。
100年前と聞くと、みなさんは「近い」と感じるだろうか。 私(隠岐氏)は250年程前を専門とする研究者であるため「比較的近い」過去と感じる。 フランス革命やアメリカの独立があった18世紀を大きな時代の境目とみなすからだ。 更に古い時代を扱う専門家なら、18世紀など「最近」だろう。 歴史研究をすると、時間の捉え方が変わってしまう。
現代人の多くが、市場の要請に基づいて非常に短いスパンで物事を考え、答えを出すよう要求されている。 そうした状況で長期的視野は、無用の長物とみなされがちだ。 だが、コロナ禍がなかなか収まらない今、改めて思うのは集団視野で長期的視野を失うのは危ういということだ。
世界中で多数の死者を出したスペイン風邪は約100年前のことだが、不思議なほど人々はそれを忘れた。 先進国の政府は感染症の脅威が去ったかのように捉え、それよりも医療含めた公共サービスのコスト削減に熱心だった。 研究者の側にも、基礎的な感染症研究を時代遅れのように捉える空気はあり、市場のニーズにあう応用研究に頭脳もカネも集まりがちだった。
市場は私たちに豊かさや活力をくれるが、しばしば、私たちを現在に閉じ込める。 経済というもののこうした性質を忘れるべきではないと思う。 今から100年後の人たちが、コロナ禍のあったこの時代を教訓に、覚えていてくれることを願う。
(以上、朝日新聞 「まったりアカデミア」より引用したもの。)
このコラム記事を読んで、元医学関係者だった原左都子にとって一番印象深かったのは。
<研究者の側にも、基礎的な感染症研究を時代遅れのように捉える空気はあり、市場のニーズにあう応用研究に頭脳もカネも集まりがちだった。>
この箇所である。
まさに私が20代の現役医学関係者時代は、当時としてはトピックスだった免疫学の研究開発に励んでいた。
私が20代にメインとしていた医学対象は、まさにその「免疫学」。
その中でも免疫細胞サブクラス・サブセットの詳細な分類やそれらの機能等々に関して、日々研究開発を繰り返していた。
その後、時代はモノクローナル抗体時代へと移り行き。
更には遺伝子解析へと大きく方向転換していった。
そして再生細胞研究が盛んに実施されるようになり、ES細胞、iPS細胞、等が人為的に作成可能となり。 今やそれらの再生細胞は臨床医学分野にても大きな役割を果たす時代へと変遷している。
話題をコラムの冒頭に戻すと。
100年前は、近いか?
と問われると、私の場合歴史研究者の経験は皆無だが、その身にして「近い」と感じる派かもしれない。
その理由を探ってみると。
一時哲学に凝って、娘の名前を古代ギリシャ・プラトン哲学より引用したり。
あるいはアインシュタイン氏のファンでもあり、相対性理論や量子力学的実在論にはまったりした経験がある故であろう。
これらの学問は現在に至っても少しも古びておらず、今尚燦然と輝く学問領域であろう。
最後に。
このコラムのテーマである、「今から100年後に世界人民はコロナ禍を覚えているだろうか?」 に関してだが。
我が希望としては、「忘れ去っていて欲しい」に尽きる。
ただ、私の個人的な経験を述べるならば。
我が医学部にての恩師先生が、初期の頃のインフルエンザワクチン研究創始者であられるのだが。
この医学部恩師の専門力の程が多岐に及ぶのに加えて実に教育熱心な恩師であられた恩恵で、私は医学部卒業後医学分野にて十分に活躍可能だったと今尚感謝申し上げている。
そんな意味では、ワクチン研究者たちの偉業をいつまでも称えたい気もする。
今現在「コロナ禍」に既に2年半もの長期に渡り苦しめられている身としては。
もういい加減、普段の生活に戻りたいのが実際問題本音だ。
そういう意味では、100年先に生きている人々にはこんな暗い時代を思い起して欲しくない! と考えるのが通常であろう。