本日のテーマは、本日付朝日新聞 “悩みのるつぼ”より取り上げよう。
早速、40代女性による「愛する娘から毒母と呼ばれて」と題する相談内容を、以下に要約引用しよう。
40代女性だが、幼少期から自己肯定感なく生きてきた。 両親が8歳の時に離婚、2人とも子供はいらないと家に残され、日が暮れたころに帰ってきた父が仕方なく引き取る形になった。 毎日殴られて、下着も体操服も1着しか買ってもらえなかった。
早く結婚して娘ができた。 母親がどういうものか分からない。頼る人もおらず精神的に何度も倒れ掛かった。 でも、こんなかわいい子を独占できる! 幸せだった。
娘は学校ではなかなか友達となじめなかったが、私が友達になってあげればいいと、いろんなところへ遊びにいった。 ところが、娘が大学に進んで一人暮らしを始めると「お母さんは毒母だ」と言われ、ラインをブロックしたり私が買って上げたものをメルカリに売りに出された。 話し合うと、私の欲を押し付けられて娘は悩み苦しんだと言う。
娘は今、何ごとも無かったように電話してきたりする。 表面上私も普通に接するが、プレゼントは買えない。 面倒くさがりの亭主に言っても、「そうやなあ」で終わる。
すごく苦しんでいる。 もう好きに生きていいだろうか? 妻でなく母でもなく。 恋もしたいです。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”本日の相談を要約引用したもの。)
ここで一旦、原左都子の私見、というよりも“驚き!”だが。
どうしたというんだ!?!
この相談の最後の展開は!
いきなり、「もう好きに生きていいだろうか? 妻でなく母でもなく。 恋もしたいです。」
いくらなんでも飛躍し過ぎだろ!
結局本音はそういう相談なんだろうなあ。 娘も家族も本心はどうでもよくて、それがしたい!と訴えているとしか伝わらないなあ。
相談の本筋に戻るならば。
今回の回答者であられる政治学者の姜尚中氏も書かれている。
「その愛情は利己本位だったのでは」と。
まさに姜尚中氏がおっしゃる通りの感覚を私も抱く。
相談文中にある「こんなかわいい子を独占できる!幸せだった。」この文言が大いに気になる。
母親にとって子供とは愛情込めて育てる義務はあるが、決して自分が独占する対象ではない。
娘さんから「毒母」と後ろ指をさされ、ラインをブロックされたりした背景には、母親からのその“独占欲”の鬱陶しさがあったことだろう。
それでも娘さんが更に成長した現在に至っては、何事も無かったように電話をくれたりしているとこと。
それで十分であるはずなのに。
相談者の心が急展開して、好きに生きたい、妻でも母でもなく、恋をしたい。
まったくもって論理破綻の相談だ。
ご亭主に関しては私はそんなものだと感じるし、それ以上の何を望むのだろとしか思えない。 大抵の家庭のご亭主は“面倒くさがり”ではなかろうか??
姜尚中氏は、このご亭主が「あなたをひとりの『女』として遇することを怠ってきたように思えてならない」と記されているが。
私など、亭主が私に対する自由度を認めてくれている事実こそが、日々の我が生き甲斐実行に繋がっているとの感があり、感謝すらしている。(半端ではない“面倒くさがり”のため、手間がかかる亭主だが…😵 )
表題の「『良母』と『毒母』の線引き」に話題を戻そう。
この相談女性の場合「毒母」と表現するよりも、大変失礼ながら「幼稚母」と表現した方が適切かもしれない。
娘さんの方は既にすっかり大人になって、過去に何事も無かったかのように電話をくれたりしている様子だ。
それで充分であるはずなのに、この「幼稚母」は娘にプレゼントは買えないなどと駄々をこねている始末。
プレゼントはどうでもいいとして、電話をかけてきてくれる娘さんが可愛いと思えないものだろうか??
私の印象ではこの娘さん、実際“いい子”との印象しか抱けないのだけど…
相談者の “恋をしたい”との「内心の自由」は法的にも認められるとして。
その「内心の自由」と同時進行で。
今後は大人になった娘さんの存在を、母親として肯定してあげられるように少しは努力しては如何だろうか。