つい先ほど、我がエッセイ集を読み直していて、面白いエッセイを発見した。
早速以下に、表題に掲げたそのエッセイの一部を引用させていただこう。
私め原左都子も、当該「原左都子エッセイ集」をネット上に公開しているが。
一人称の使い分けに迷うことが、実際多い。
一人称の使い分けに迷うことが、実際多い。
特に2010~2013頃にかけて、一人称を「私」ではなく「原左都子」に固定した時期もあった。
何故そのような措置を執ったかを説明すると。
オピニオンブログである我がエッセイ集の場合、オピニオン発言者を明確に記すべきと考えた故だ。
我がエッセイ集は、新聞・ネット情報等々外部からの引用文も頻繁に掲載している。 (その場合、必ず“何処から引用した”旨の一文を引用文の下に記載しているにもかかわらず)。 どうやら斜め読みをされたと思しき読者の方々がその引用部分を原左都子自身のオピニオンと読み違え、それに対する誹謗中傷を受けるとの経験もしている。😰
我がオピニオンと引用部分とを更に明確に区別する必要性を痛く感じさせられ、2010年頃から必ず我がオピニオン部分の一人称を「原左都子」とする習慣がついたのだ。
(現在、当時のバックナンバーを自分で読み返すと、「原左都子」「原左都子」とうるさいなあ! 感を抱くのだが… そのような時代背景だった故にやむを得なかったと思って下されば幸いです。)
現在に於いては、コメント欄を閉鎖している関係で誹謗中傷を直接受けることがほぼなくなり一人称を「私」に切り替えている。 ごくたまにメッセージ欄から誹謗中傷を頂く事もある…😱 その際は必ずご自身のメールアドレスをご記入頂けますと幸いです。 必ずやこちらからご返答申し上げます。
時にこれぞ“原左都子が訴えたい重要論点だ!”との意思を強調する目的で、「原左都子」の一人称を使用する場面も今尚ある。
時がバレンタインデーに近づいている事実を実感させられるが。
この新聞記事は、要するに男女・恋愛関係に関する研究発表記事である。
内容を要約しよう。
米テキサス大オースティン校のチームが、2月1日、米科学アカデミー紀要に論文を発表した。
チームは、男女の「別れ」に関するグループに着目し。 別離が起きたと言う時期の前後のそれぞれ1年分のネット投稿100万件を分析した。
その結果、投稿者がパートナーをふる場面やふられる場面によらず、最長で実際の別離の3ヶ月前からネット投稿に特徴が現れることがわかった。 投稿内容がより私的なものになり、一人称代名詞の「I」「my」「we」などの使用頻度が統計的に高くなっていた。 また、こうした傾向は別離の当日前後に最も強くなり、別離後も最長6ヶ月間程続くことも分かった。
心理学を専攻するチーム員の談話によれば、「I」の使用は落ち込みや悲しみと相関関係があるという。 氏は「私たちは前置詞や冠詞、代名詞をどのくらい使うのかなど気にしないものだが、個人的な大きな変化が起きると、心の中の状態を反映して変わるものだ」とコメントしている。
(以上、昨日の朝日新聞記事を引用したもの。)
原左都子の私見に入ろう。
英語会話に於いては、確かに「I]「you」「we」等々の人称単語を入れるのが常識であろう。
片や日本語に於いては、この人称無くして会話が成り立つのが通常ではなかろうか?
(事例をあげると。 「あら、こんにちは。」「今日はどちらへ行かれるの?」 当該会話内に「あなた」なる単語は決して出てこない。)
ところが、これが一旦文章になると。
我が国日本でも、「人称」記述が重要となろう。
(我がブログは「オピニオンブログ」であるが故に、この「人称」記述が欠かせないのだが。)
例えば世に氾濫している無難系ブログの場合、そう言えば皆さん「一人称」をどうしておられるのだろう???
例えば“写真ブログ”の方々が、「本日、“私は”これを撮影してきました」なる書き込みをされているのを拝見したことがない気もする。😶
と、はたと気づかされる程に。
我が国に於ける会話や記載物に於いて、「人称」の出番が極端に少ない事実に改めて気づいた次第だ。😟
(以上、我がエッセイ集1年前のエッセイを再公開させていただいた。)
2022.02.09時点の、原左都子の私事に戻ろう。
未だ、家族の確定申告トラブルに翻弄されている身にして。
決して、バレンタインデーどころではない身だが。
先程、ネット上で偶然上記のバックナンバーに触れることができて。
なかなか面白いエッセイだと思えたことを、今夜は よし!としよう。