原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ウォークマンが心のふれあいをなくすと言われた時代もあった

2022年06月06日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、朝日新聞2022.06.04付「書評」ページより転載した玉城絵美氏著 「BODY SHARING 身体の制約なき未来」。)


 今回のエッセイは、恒例の朝日新聞「書評」ページより上記著書に対する 文化人類学者 磯野真穂氏による「体験は他者と『共有』できるのか」を取り上げさせていただこう。
 早速以下に、当該書評の一部を要約引用しよう。

 苦手なことを難なくこなす人に会うと「いいなあ」と思う。 他方、工学研究者はこの羨望の先を行く。 かれらは、「それ、技術でできるんじゃない?」と述べる。 玉城は、間違いなくその一人である。
 映像と音声を通じ、私達は世界を疑似体験する。 しかし視覚と聴覚だけでは、そこにあるモノを持ち上げたり、大地を踏みしめたりした時の感覚は得られない。 (中略)
 視覚だけでなく、物体に働きかけたときに生ずる「固有感覚」も得られれば、体験はよりリアルになるだろう。
 玉城はその技術で「TIME」誌の「世界の発明50」に選出された経歴を持つ工学者であり、描く未来は壮大だ。
 Body Sharingが完全実装されると、身体の制約から人類は開放される。 誰かの体験をログとして保存し、体に入力すれば、その体験は自分のものだ。 固有感覚のインプットがあれば、仮想と現実の差異は消えてゆく。(中略)
 本書は、経験と知性の邂逅が開く未来への物語である。
 しかし読後、こんな疑問も残った。 「感覚の共有」は「体験の共有」なのか。 誰かの体験を完全に共有したら、それは共有ではなく一体化ではないか。 一体化不能な他者と共有するための営みが「共有」であり、それを尊重するのなら、他者との隙間は残すべきではないか。
 だがこれらの疑問は、新技術の普及時に現れがちな違和感に過ぎないのかもしれない。 ウォークマンが心のふれあいを無くすと言われた時代もあったのだ。

 (以上、朝日新聞「書評ページ」より一部を要約引用したもの。)



 私事及び私見に入ろう。

 若かりし時代に恋をすると、恋愛相手との距離感をどんどん縮めて行って心身共に「一体化」したい、との欲求が自然と芽生えたものだ。
 お互いの体験の共有を通して感覚の共有を勝ち取れた時には、「一体化」が叶ったと実感し恋愛の幸福感を得たものであろう。

 ところが特に若気の至りの時代とは、そんな幸福感も時間と共に消え去る運命にあった…
 
 上記書評内に、「一体化不能な他者と共有するための営みが『共有』であり、それを尊重するのなら他者との隙間は残すべきではないか。」との記載があるが。
 恋愛経験を重ね大人になっていく毎に、“他者との隙間を残す”ことを学びつつ「共有」するすべを学んでいったようにも振り返る。


 私事を語るならば。

 それにしても年を重ねてもいつまで経っても“恋愛下手”だった(である)我が身と振り返る。
 おそらく、“他者との隙間を残す” 技術力や感性に私は長けていないのだろう。

 

 表題に掲げた「ウォークマン」だが。

 この私も2度目の大学生時代に夕方大学からコンパニオンのアルバイトに通う際に、この「ウォークマン」に随分とお世話になった。
 これを耳に装着して、電車に揺られ寝ながら(熟睡でした!)大学からコンパニオン職場に日々通ったことが懐かしい。
 その当時の私はウォークマンが心の触れ合いを無くす、どーのこーのよりもとにかく、電車内で睡眠時間を確保するのが第一義だったものだ。
 
 今となっては、新しく買い替えたウォークマンをランニングのお供に利用している。
 週2回のペースで5㎞ランニングに励んでいるのだが、この曲の時にはここまで走っていたい!なる目標設定としての利用が叶い、それが大いなる励みになっている。

 
 
 他者との「感覚の共有」「体験の共有」に関する我が勝手な結論を述べるならば。

 特に恋愛関係に於いてはその共有がお互いの努力義務と言うよりも、自然発生的側面で済まされるべき対象なのではなかろうか??