原左都子エッセイ集にて14年程前の2008.08に公開した「無通化する社会」と題するバックナンバーが、その後スタンダードナンバーとして現在に至るまでずっと人気を博している。
以下に、当該バックナンバーの一部を再掲載させていただこう。
哲学者 森岡正博氏による執筆の一部を要約しよう。
いまこの部屋には空調が効いていて快適に会議ができるが、50年前には猛暑の中で熱射病にかかったかもしれない。そういう肉体的な苦しみやつらさがあった。この苦しみやつらさを消すにはテクノロジーを発展させればよいという発想で、現実にそのような技術開発をしてきた。そもそも文明の進歩とは“無痛化”を進めることと考えることもできる。
正確に言えば、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが社会の中に張りめぐらされていること、これを私は“無痛化”という言葉で呼ぶ。
この“無痛化”は将来の“無痛化”をも予測しあらかじめ手を打つという特徴もある。現代の科学技術や医療技術はそのような社会をサポートする方向にどんどん進んでいる。
この“無痛化”現象を、単に文明の進歩として賞賛していいのか? そうではなく現代哲学が正面から立ち向かって深く掘り下げるべき問題である。
私(森岡氏)は、“無痛化”は人間から「よろこび」を失わせていると結論づける。社会の中で人間関係の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れていくと快適さ、安楽さが残り、欲しい刺激が手に入れられる。するとどうなるのか。「気持ちがいいがよろこびがない、刺激が多いけれども満たされない」、という状態になる。
以上は森岡氏の評論文の要約である。 (中略)
例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。
誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。
人間関係に的を絞って、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。
既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力が無くなってしまっている時代なのであろう。
ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。 紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。
その場しのぎの、“痛み”を伴わない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。 ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。
“痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。
いまこの部屋には空調が効いていて快適に会議ができるが、50年前には猛暑の中で熱射病にかかったかもしれない。そういう肉体的な苦しみやつらさがあった。この苦しみやつらさを消すにはテクノロジーを発展させればよいという発想で、現実にそのような技術開発をしてきた。そもそも文明の進歩とは“無痛化”を進めることと考えることもできる。
正確に言えば、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが社会の中に張りめぐらされていること、これを私は“無痛化”という言葉で呼ぶ。
この“無痛化”は将来の“無痛化”をも予測しあらかじめ手を打つという特徴もある。現代の科学技術や医療技術はそのような社会をサポートする方向にどんどん進んでいる。
この“無痛化”現象を、単に文明の進歩として賞賛していいのか? そうではなく現代哲学が正面から立ち向かって深く掘り下げるべき問題である。
私(森岡氏)は、“無痛化”は人間から「よろこび」を失わせていると結論づける。社会の中で人間関係の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れていくと快適さ、安楽さが残り、欲しい刺激が手に入れられる。するとどうなるのか。「気持ちがいいがよろこびがない、刺激が多いけれども満たされない」、という状態になる。
以上は森岡氏の評論文の要約である。 (中略)
例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。
誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。
人間関係に的を絞って、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。
既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力が無くなってしまっている時代なのであろう。
ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。 紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。
その場しのぎの、“痛み”を伴わない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。 ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。
“痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの一部を再掲載したもの。)
つい最近、朝日新聞記事にてその哲学者・森岡正博氏によるコラム記事を見つけた。
2022.06.07付「リレーオピニオン 痛みはどこから」より、「『無痛文明』に生きる残酷さ」の一部を以下に要約引用させていただこう。
つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けた後に、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはある。 古い自分が崩れ、新しい自分に変ったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはず。 無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打って潰していく文明だ。 (中略)
この19年の間に日本社会では、経済格差問題への注目が高まった。 貧困の苦しみにあえぐ最中の人々にとっては、その苦しみを取り除くこと自体が第一だろう。 無痛文明は基本的に豊かな人々の問題なのだ。
ただし無痛文明には、社会改善を推し進める側面もある。 貧困などの苦しみを社会から取り除こうとするからだ。 長い時間が経って貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面する。 無痛文明は、そんな残酷なシステムでもある。
私(森岡氏)にとって無痛文明は未完です。 続編を書きたいと思っています。
(以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)
最後に、原左都子自身の今に関して述べるならば。
「原左都子エッセイ集」開設直後期からコメント欄を閉鎖した2011秋頃まで、たかがブログ公開に於いて「痛み」を痛感させられる場面が確かにあった。
思い切ってコメント欄を閉鎖して既に10年以上の年月が経過しているが、ことブログに関しては「痛み」症状を経験することも無く平和な月日が流れていると言えそうだ。
日常生活上でも、特段の「痛み」を受ける機会は少ない人間であるかもしれず。
それ故に、もしかしたら他者の「痛み」に関して鈍感になってしまっている自己を反省するべき立場なのかもしれない。
上記引用文中最後に、森岡氏が書かれている一文が衝撃的だ。
今一度繰り返しておこう。
「長い時間が経って貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面する。 無痛文明は、そんな残酷なシステムでもある。」