(冒頭写真は、2023.03.11付朝日新聞「書評」ページより ティモシー・ウィリアムソン著「哲学の方法」の写真を転載したもの。)
久しぶりに、朝日新聞「書評」ページよりエッセイの題材を得よう。
上記写真のティモシー・ウィリアムソン著「哲学がわかる哲学の方法」に対する、法政大学・政治思想史教授 犬塚元氏による書評「精緻にして明晰な思考のために」と題する書評を以下に要約引用する。
「それってあなたの感想ですよね。」 文系の学問に外部からそんな批判が向けられるのは珍しくはない。 人文社会科学の内部にも、統計学の手法によるお墨付きがなければ、学問とは呼べないと説く立場がある。 特に哲学は、日常語では個人の人生観や信条も意味するから、この分野の営みを、主観的な施策とみなす人だっていることだろう。
哲学はサイエンスたりうる。 これが本書の立場だ。「うまいやり方」をすれば、哲学は「体系的、組織的な探究」という意味の化学であるというのだ。
それは最善の説明を与える理論を探る点で自然科学に近いが、アームチェアで思索をめぐらす点では数学に近い。 原著は、オックスフォード大学出版局の、定評ある入門シリーズの一冊。 筆致は軽やかで、翻訳も工夫があって読み易い。
では、哲学における「科学的方法」とはどんなものか。 それが本のテーマだ。
とはいえ、哲学が武器にできるのは「思考の力」だけで、奇抜な策はない。 誰もが使う認知の方法を、いわば体系的・批判的に繰り返す方法だ。 それは、人間のどんな能力も誤りを犯しうることを前提に、精緻で明晰な思考を積み重ねるための手続きである。
精緻に議論する研究者には、慎重過ぎる、ゲームに興じているじゃないかとの批判も寄せられるが、著者は、むしろ奔放で大胆な思索の論者に厳しい。 明晰さを欠くがゆえに反駁されずに済む、「安易で気楽なやり方」というのだ。
「科学的方法」を掲げるこの本は、「分析的」と呼ばれる英米哲学の潮流に属している。 哲学や政治哲学の学界には、かねてこれに批判的な潮流もあり、どんな方法で何を目指すかをめぐっては、学問内部に活発な議論がある。 人文社会科学をなんでも「感想」とみなすのは、それ自体が実態をふまえないであろう。
(以上、朝日新聞「書評」ページより引用したもの。)
上記 犬塚教授の書評を読ませていただいて、原左都子が真っ先に思い起したのは。
30歳時に再入学した2度目の大学に於いて履修した、哲学者A先生による「科学哲学」の授業だった。
参考だが、我が最初の大学での専攻は「医学」だった。
2度目の大学では最終的には「経営法学」専攻に落ち着き、大学院にて「経営法学修士」を取得したのだが。
何分入学時点で既に30歳を超えている独身の立場だし、夕方以降と大学の長期休暇中は仕事も持っていたしで(大学院も含めて)6年間の学生時代は超多忙な日々を過ごした。
そんな中で、私が2度目の大学にて「教職科目」の一つとして選択したのが、哲学者A先生による「科学哲学」の授業だった。
(この哲学者A 先生による「科学哲学」授業内容に関しては、本エッセイ集「学問・研究カテゴリー」内にて公開しておりますのでご参照下さい。)
これが、他のどの科目にも勝る程の“インパクト”を私に与えてくれたものだ!
まさに「哲学」と何か?なる基本的命題から始まり、「プラトン哲学」や「量子力学的実在論」、ウィトゲンシュタイン、米国のRortyの哲学やプラグマティズム、デカルト、ニュートン、等々……
素晴らしい哲学の世界を、学生達(残念ながら、授業内容が難解だったのか?中途辞退者が多く最後まで残った学生は少人数だった…)に伝授していただいたものだ。
先程も書いたが、我が2度目の大学にての専攻は「経営法学」だったものの。
この哲学者A先生のお陰で学問の素晴らしさに十分触れることが叶い、充実した学生生活を過ごせたことに感謝申し上げたい。
最後に話題を「哲学」に戻すならば。
「哲学」を一時でも本気で学ぶことにより、確かに一生を通して “緻密にして明晰な思考”が叶うようになる!と、原左都子も同感だ!!