(写真は楔形文字が押印された紙片を写したものだが、何と読むかお分かりだろうか? その答えは 「はらさとこ 女」 である。)
先だって東京池袋サンシャインシティにある 古代オリエント博物館 を訪ねた。
現在この博物館に於いては、常設展示の「タイムスリップ! 古代オリエントの世界」、及び「バーミヤーン遺跡の保存と修復写真展」(こちらは11月27日にて終了)等の特別展が開催中である。
常設展に於いては、上記博物館の自主発掘調査によるシリアの家屋の復元模型をはじめとして、500万年前に地球上に人類が出現した当初使用されていた万能石器である「ハンドアックス」の展示、古代メソポタミアにおいて絵文字から発展した“楔形文字”(上記写真参照)が刻まれた土器や装飾品等の展示、及び古代エジプト文明や、シルクロードを経て我が国に伝わり正倉院に納められたササン朝ペルシア時代の工芸品等の数々が一覧できる。
加えて皆さんも記憶に新しいと思われるが、イスラム教過激派タリバーンにより無惨にも破壊されてしまった歴史的建造物である「バーミヤーン遺跡」の仏像等の保存と修復を目指し、世界各国の考古学者達が精力を傾けている現状を映した写真の数々も展示されている。
そんな中常設展において、古代使用されたという“世界最大の分銅”も展示物の一つとして公開されていた。
残念ながら常設展のどのコーナーの展示だったのかの記憶もなければ、それがどれ位の重さと記載されていたのかの記憶もおぼろげであることをお詫びする。
確か現在の単位に換算して十何キロ位の重量であったと記憶しているが、その単位は古代であるから当然に「g、kg単位」ではなく別の単位であった。
それにしても古代において既に測定上ある程度高度に精密さを保てる分銅が存在していた事実を知り、感銘させられたものだ。
原左都子が今回この“世界最大の分銅”を目の当たりにして感激した理由には、私なりのバックグラウンドがあるのだ。
元々医学関係者として私が社会に進出したのは、今を遡る事30数年前の学生時代にその分野に関連する学問と実習経験を経た後のことであった。
特に無機化学分野の実験においては要求される単位が想像を絶するほど細かく、0,000… いくらかの精密な測定を余儀なくされたものだ。 当時既に電子測定器もあるにはあったが、その頃は学生の実習において分銅を使用する「上皿天秤」を用いる事が必修だったものだ。
これが大変だ。 上皿の片側に乗せる分銅(汚染による劣化を回避するため決して直接手ではいじらずピンセット等を用いて天秤皿に乗せる)が大きい場合は扱い易いのだが、これが0,000… の世界に入るとその分銅とは極小の金属破片でしかなく、これを見失わないよう神経を使ったものである。
片や、測定対象物である試料を天秤のもう片方の上皿に乗せる場合、(これは電子測定器を使用する場合も同様であるが)それが例えば薬瓶に入っている化学物質である場合など薬瓶から取り出すのにも難儀を極めたものである。 粒子状の試料の場合、たとえ目に見えない程の大きさであろうと一粒の粒子が多き過ぎると容量オーバーと相成るのだ。 試料用スパチュラー(さじ)で砕けるものはそうするのだが、水溶性が高い物質など固まり易いし、わずかな湿度でも水分を含有してしまっては精密な測定が不能となる。
結局、我が過去の学生実習においてどれ程精密度の高い実験が可能だったのか…? と、上記古代オリエント博物館に展示されていた“分銅”を見聞して懐かしく振り返ったりもしたのである。
そうしたところ、タイムリーに 「キログラム原器」 の廃止に関するニュースを朝日新聞で発見した。
早速、朝日新聞10月22日一面記事「キログラム原器廃止へ」と題する記事を要約して紹介しよう。
質量の単位「キログラム」の定義として120年以上使われてきた「国際キログラム原器」を廃止し、新しい定義へ切り替える方針が21日にパリ近郊で開かれた国際度量衡総会で決議された。 これにより長さや時間が現代的な定義に置き換えられることとなる。
現在使用されている国際キログラム原器は、1889年に“メートル条約”に基づいて作られた白金イリジウム合金製の分銅であり、パリの国際度量衡局に厳重に保管されている。
ところが本来質量とは一定のはずであるのに(この「キログラム原器」が)洗浄により1億分の6程度軽くなったこともあり、高精度の測定が必要な先端科学の世界ではより正確で安定的な定義が求められていた。 ケイ素原子の数を高精度で数える方法等、物理の基礎的な普遍定数に基づく定義が技術に可能になったことを背景に、今後10年程かけて新定義の制度に移行する見通しである。
長さに関しても、1983年からは高速に基づいて定義されている。
時間に関しても地球の自転や公転に基づいて定義されていたが、現在は原子が出す電磁波の周期による定義に変わっている。
一般人の方々にとっては、例えば質量における“1億分の6程度のくるい”に関して何故それ程騒がねばならないのかが分かりにくいかもしれない。 確かに人間の日常生活の営みにおいては、それ程の正確さや厳密性は不必要と映ることであろう。
ところが、紀元前の古代より人類は学問・科学に目覚め、その充実・発展と共に世の中は進化を遂げて来ているのだ。
この先永遠に存続するであろう宇宙の時空間に於ける恒久性を支えるべく科学が発展を続けるためには、数量単位の一つである質量において“1億分の6のくるい”とて許されるものではないことは自明の理である。
今回の「キログラム原器廃止」のビッグニュースは、その意味で地球上に於ける何世紀かに一度のトピックスと私は捉えている。
先だって東京池袋サンシャインシティにある 古代オリエント博物館 を訪ねた。
現在この博物館に於いては、常設展示の「タイムスリップ! 古代オリエントの世界」、及び「バーミヤーン遺跡の保存と修復写真展」(こちらは11月27日にて終了)等の特別展が開催中である。
常設展に於いては、上記博物館の自主発掘調査によるシリアの家屋の復元模型をはじめとして、500万年前に地球上に人類が出現した当初使用されていた万能石器である「ハンドアックス」の展示、古代メソポタミアにおいて絵文字から発展した“楔形文字”(上記写真参照)が刻まれた土器や装飾品等の展示、及び古代エジプト文明や、シルクロードを経て我が国に伝わり正倉院に納められたササン朝ペルシア時代の工芸品等の数々が一覧できる。
加えて皆さんも記憶に新しいと思われるが、イスラム教過激派タリバーンにより無惨にも破壊されてしまった歴史的建造物である「バーミヤーン遺跡」の仏像等の保存と修復を目指し、世界各国の考古学者達が精力を傾けている現状を映した写真の数々も展示されている。
そんな中常設展において、古代使用されたという“世界最大の分銅”も展示物の一つとして公開されていた。
残念ながら常設展のどのコーナーの展示だったのかの記憶もなければ、それがどれ位の重さと記載されていたのかの記憶もおぼろげであることをお詫びする。
確か現在の単位に換算して十何キロ位の重量であったと記憶しているが、その単位は古代であるから当然に「g、kg単位」ではなく別の単位であった。
それにしても古代において既に測定上ある程度高度に精密さを保てる分銅が存在していた事実を知り、感銘させられたものだ。
原左都子が今回この“世界最大の分銅”を目の当たりにして感激した理由には、私なりのバックグラウンドがあるのだ。
元々医学関係者として私が社会に進出したのは、今を遡る事30数年前の学生時代にその分野に関連する学問と実習経験を経た後のことであった。
特に無機化学分野の実験においては要求される単位が想像を絶するほど細かく、0,000… いくらかの精密な測定を余儀なくされたものだ。 当時既に電子測定器もあるにはあったが、その頃は学生の実習において分銅を使用する「上皿天秤」を用いる事が必修だったものだ。
これが大変だ。 上皿の片側に乗せる分銅(汚染による劣化を回避するため決して直接手ではいじらずピンセット等を用いて天秤皿に乗せる)が大きい場合は扱い易いのだが、これが0,000… の世界に入るとその分銅とは極小の金属破片でしかなく、これを見失わないよう神経を使ったものである。
片や、測定対象物である試料を天秤のもう片方の上皿に乗せる場合、(これは電子測定器を使用する場合も同様であるが)それが例えば薬瓶に入っている化学物質である場合など薬瓶から取り出すのにも難儀を極めたものである。 粒子状の試料の場合、たとえ目に見えない程の大きさであろうと一粒の粒子が多き過ぎると容量オーバーと相成るのだ。 試料用スパチュラー(さじ)で砕けるものはそうするのだが、水溶性が高い物質など固まり易いし、わずかな湿度でも水分を含有してしまっては精密な測定が不能となる。
結局、我が過去の学生実習においてどれ程精密度の高い実験が可能だったのか…? と、上記古代オリエント博物館に展示されていた“分銅”を見聞して懐かしく振り返ったりもしたのである。
そうしたところ、タイムリーに 「キログラム原器」 の廃止に関するニュースを朝日新聞で発見した。
早速、朝日新聞10月22日一面記事「キログラム原器廃止へ」と題する記事を要約して紹介しよう。
質量の単位「キログラム」の定義として120年以上使われてきた「国際キログラム原器」を廃止し、新しい定義へ切り替える方針が21日にパリ近郊で開かれた国際度量衡総会で決議された。 これにより長さや時間が現代的な定義に置き換えられることとなる。
現在使用されている国際キログラム原器は、1889年に“メートル条約”に基づいて作られた白金イリジウム合金製の分銅であり、パリの国際度量衡局に厳重に保管されている。
ところが本来質量とは一定のはずであるのに(この「キログラム原器」が)洗浄により1億分の6程度軽くなったこともあり、高精度の測定が必要な先端科学の世界ではより正確で安定的な定義が求められていた。 ケイ素原子の数を高精度で数える方法等、物理の基礎的な普遍定数に基づく定義が技術に可能になったことを背景に、今後10年程かけて新定義の制度に移行する見通しである。
長さに関しても、1983年からは高速に基づいて定義されている。
時間に関しても地球の自転や公転に基づいて定義されていたが、現在は原子が出す電磁波の周期による定義に変わっている。
一般人の方々にとっては、例えば質量における“1億分の6程度のくるい”に関して何故それ程騒がねばならないのかが分かりにくいかもしれない。 確かに人間の日常生活の営みにおいては、それ程の正確さや厳密性は不必要と映ることであろう。
ところが、紀元前の古代より人類は学問・科学に目覚め、その充実・発展と共に世の中は進化を遂げて来ているのだ。
この先永遠に存続するであろう宇宙の時空間に於ける恒久性を支えるべく科学が発展を続けるためには、数量単位の一つである質量において“1億分の6のくるい”とて許されるものではないことは自明の理である。
今回の「キログラム原器廃止」のビッグニュースは、その意味で地球上に於ける何世紀かに一度のトピックスと私は捉えている。
10年後の新制度の定義がどのようになるか興味が湧くところです。質量は湿度と気圧を抜きには考えられないので、簡単そうで大変な事なのかもしれません。
「キログラム原器」にくるいが生じてはならないのはもちろんですが、各種単位を測定する測定器の精度も同時進行で進化を遂げていることでしょう。
isseiさんが書かれているように測定環境は測定結果を大きく左右しますが、世界基準の単位を決定する場合如何なる環境の下で測定されるのでしょうかね??
この度廃止が決定した「キログラム原器」を一体どうやって洗浄したのか、また“1億分の6”程度のくるいを如何に測定したのかなど興味が尽きません。
普段、パソコンの右下の時計を見て、正確になったと思います。
測定単位をどれだけ荒く出来るかが、勝負。
究極の正確さを求める人類とは真逆に進んでいますが、コストが絡むと話は違います。
荒さは、安さなのですから仕方がない。
「2番じゃだめですか?」
蓮舫さんが言いたかった事は私も一庶民の立場からは理解できます。 あくまでも1番を追求するがために膨大な基礎研究費がかかるのは事実であるから、おそらく当時の蓮舫さんは“1億分のいくつか”程度の誤差などあっても人々の日々の暮らしに何の不都合もない故に削減対象だ!、と庶民感覚で単純に思ったままの発言をしてしまったのでしょう。
蓮舫さんが庶民の立場からその言葉を発したのならばその答えは大正解でした。 ところが蓮舫さんとは残念ながら庶民ではなかったのです。
ノーベル化学賞を受賞している野依氏は以下の名言を発してレンホウさんを叩きました。
「将来、(蓮舫を含む仕分け人は)歴史という法廷に立つ覚悟はできているのか!」
科学を経験している私は、これはまさに“名言”と捉えています。
科学とは歴史と宇宙の未来を背負って発展、進化する宿命があるのです。 科学者達とはその宿命を背負い日々闘い続けています。
私も本文中に書きましたが、一般人が日々生活を営むにおいて“1億分の6”の世界を意識することなど皆無でしょう。「何でそんな細かい事にこだわるの? そんなの一部の人の特殊趣味じゃないの?」と思ったりもするのでしょう。 その気持ちも分かります。
ですが、繰り返しますが、科学とは歴史と宇宙の永遠の未来を背負って進化していかねばならない宿命があるのです。
もしも世界基準である単位の原器の“1億分の6のくるい”を許し続けていたならば、永遠の未来においてその歪みは大きなものとなるでしょう。 自然界の諸原理とは正確に分析され続けねばならないのに、その歪みを許し続けていたとすると、ある時は生命体の命を奪う事態が発生するかもしれません。
だからこそ、野依氏は「歴史という法廷に立つ覚悟はできているか!」と言ったと私は理解しています。
一般人が“1億分の6”など気にする必要はない、というのはドカドンさんがおっしゃる通りです。
一方で、科学者や国政の幹部たる者が科学を理解しない発言をすることは許されないことです。
ついつい熱くなってしまい、長くなってすみません。
工業製品は、寸法の許容範囲を広く出来るかが、即、コストにはね返ります、って言いたかったのです。
工業製品は、誰が測定しても同じ結果が得られなければ、高品質、低コストは実現しません。
こんな背景のバックには、1億分の6があってこそで、この高精度を大切にして来た日本だからこそ、高精度の測定器が今に存在できるのだと思います。
高精度だけども価格は安くないと日本の工業製品は成り立ちません。
私達は、工業製品で儲けたお金を、1億分の6の精度を保ったり、次世代の製品を開発し続けなければなりません。
私達は、研究も続け、同時に、その研究に使うお金も儲けなければなりません。
どちらも車の片輪ですから、どちらが欠けても真直ぐには進みません。
私は、レンホウさんの様なコメントはしませんが、それに近い感覚を持っています。
何故か?学者気質では、大量に工業製品を、生産し続けられないからだと思いますから。
ドカドンさんとはもう長いお付き合いですし、エンジニアでいらっしゃるドカドンさんは、そのようにお考えであろう事は内心理解しておりました。
私自身も元々民間企業の出身故に大いにコストの世界でもまれていますので、ドカドンさんと考えは同じです。
まったくおっしゃる通りで、私の場合は高精度の医学検査体制を維持しつつ如何にコスト低減努力をして病院医師等のユーザーの要望に沿うかが日々の課題でした。
一方、大学や公的法人の研究室で研究のみに日々明け暮れている研究者とは、もしかしたら“学者気質”が否めないのかもしれません。 国等のスポンサーが湯水のごとく出してくれる財源を当たり前の感触で研究に励んでいるとすれば、それは一般社会のシステムから逸脱した特殊な世界でしかないですね。
現在は“産学共同研究”等も進んでいますが、もしそれに関しても産学において上下関係があるのならば忌々しきことと私も思います。
(私の場合、産学両方の経験があるのですが、“産”の立場では大学の研究室に“へーこら”させられ、“学”の立場では“産”から食事やイベントに無料で招待してもらっていましたから…)
今もそうだとすれば、困ったものですね…