あなたは、話し上手? それとも聞き上手?
朝日新聞夕刊「こころ」のページに先週から「悩みのレッスン」という連続コラムが新設された。これは若者の悩み事の相談に見識者が回答するQ&Aの形式をとったコラムである。
先週4月18日(金)の相談は「心を開けない」と題して、周囲の人に対して自己表現がうまくできない高校生からの相談に対し、作家のあさのあつこ氏が回答していた。
以下にあさの氏の回答を要約する。
あなたはちゃんと自分の思いを表現できていて見事なほどだ。こんな的確な文章が書ける人がどうして「自分を表現できない」と悩むのか。おしゃべりが苦手なのであれば、聞き役に回ってみたらどうか。周りの人の話に耳を傾けて共感したらうなずいてみる、それも感情表現だ。(中略) 他者に心を開け放つことは簡単ではない。開け放てる相手に、巡り合ってこそできる。変わらなくてもいい自分に気付こう。自分を好きになることが心を開く第一歩になるはず。
このあさの氏の回答に私もほぼ賛同する。この相談者の高校生が書いた相談文は見事なまでに自分の思いを表現できているのだ。
おそらく口述が下手なのであろう。その背景には心を開ける相手にまだ巡り合えていないという事情があるのだと私も考える。誰だって心を開いている相手とは楽しくおしゃべりができるものだ。逆に顔も見たくない奴とはそもそも話をしようとも思わない。自分を変える必要など何もない。まずは心を開ける相手と巡り合うことが先決問題であろう。
あさの氏の回答で一箇所気になるのは、口下手な人間は聞き役に回らなければいけないのか、という点である。
とかく最近は一方的に自己主張をしたがる人間が多い。複数の人間が集まって談話するような場面でも、場の雰囲気が読めずに自分のことばかり話す人は少なくない。そういう人に限って話がひとりよがりで面白くないものだ。自分を客観視できていない証拠である。それでもやむを得ず回りは聞いている振りをしているということに、しゃべっている本人は最後まで気付かない。まさに喋りの洪水だ。3名以上いる場合は、この難儀な聞き役も休み休みできるのでまだましだが、1対1の時は悲惨だ。この言葉の洪水が常時暴力的に押し寄せてくる。 私は人が良すぎるのか、はたまた理性がはたらき過ぎて場をわきまえ過ぎるのか(?)よくこの目に合うのだ。 相手はこちらの苦悩がわかっていない。とことん喋ってスッキリしているようで、また会って話そうね、とうれしそうに別れていく。(単細胞のあんたが一人でくっちゃべっただけだろうに…) こちらは無駄な時間を費やしたことを悔やみ胃痛とストレスを抱えつつ、金輪際こういう奴の聞き役はご免被るぞ、と決意しつつ帰路に着く。
もちろん、こういう相手というのはそもそもこちらは心を開いていない相手である。心を開いている仲良し相手なら、とにかく話していて面白い。そういうツーカーの相手とはどちらかが話し役でどちらかが聞き役という役割分担など一切ない。自然と会話のキャッチボールがうまくいっていて、充実した時間が過ぎていく。初対面でこういう相手に巡り合えることもある。思考回路や価値観等に共通項があって、いわゆる“相性”がいいのであろう。
この相談者の高校生も、もしかしたら私と同じような経験をして同じような考えを抱いているのかもしれない。ただ未成年であるしまだまだ人生経験が浅くて、今のところ心を開ける相手に巡り合えていないだけなのであろう。十分な自己表現力を内に秘めているのだから何も自分を変える必要はないし、ましてや無理をしてまで心を開いていない相手の“聞き役”をしてさらなるストレスを溜め込む必要などさらさらないと、私ならばアドバイスしてあげたい。
確かに思う存分喋ると爽快感が得られる。そして“喋る”という行為はストレス発散の優れた方法のひとつとして一般的に推奨されてもいる。
ところが、“喋り”とは“聞き役”という相手の人間なくして成立し得ない行為でもある。“喋り”も度を過ぎれば言葉の洪水となりそれが“聞き役”に限りないストレスをもたらす“暴力行為”であることを肝に銘じ、場を読み自分を客観視しつつ“喋って”いただきたいものである。
朝日新聞夕刊「こころ」のページに先週から「悩みのレッスン」という連続コラムが新設された。これは若者の悩み事の相談に見識者が回答するQ&Aの形式をとったコラムである。
先週4月18日(金)の相談は「心を開けない」と題して、周囲の人に対して自己表現がうまくできない高校生からの相談に対し、作家のあさのあつこ氏が回答していた。
以下にあさの氏の回答を要約する。
あなたはちゃんと自分の思いを表現できていて見事なほどだ。こんな的確な文章が書ける人がどうして「自分を表現できない」と悩むのか。おしゃべりが苦手なのであれば、聞き役に回ってみたらどうか。周りの人の話に耳を傾けて共感したらうなずいてみる、それも感情表現だ。(中略) 他者に心を開け放つことは簡単ではない。開け放てる相手に、巡り合ってこそできる。変わらなくてもいい自分に気付こう。自分を好きになることが心を開く第一歩になるはず。
このあさの氏の回答に私もほぼ賛同する。この相談者の高校生が書いた相談文は見事なまでに自分の思いを表現できているのだ。
おそらく口述が下手なのであろう。その背景には心を開ける相手にまだ巡り合えていないという事情があるのだと私も考える。誰だって心を開いている相手とは楽しくおしゃべりができるものだ。逆に顔も見たくない奴とはそもそも話をしようとも思わない。自分を変える必要など何もない。まずは心を開ける相手と巡り合うことが先決問題であろう。
あさの氏の回答で一箇所気になるのは、口下手な人間は聞き役に回らなければいけないのか、という点である。
とかく最近は一方的に自己主張をしたがる人間が多い。複数の人間が集まって談話するような場面でも、場の雰囲気が読めずに自分のことばかり話す人は少なくない。そういう人に限って話がひとりよがりで面白くないものだ。自分を客観視できていない証拠である。それでもやむを得ず回りは聞いている振りをしているということに、しゃべっている本人は最後まで気付かない。まさに喋りの洪水だ。3名以上いる場合は、この難儀な聞き役も休み休みできるのでまだましだが、1対1の時は悲惨だ。この言葉の洪水が常時暴力的に押し寄せてくる。 私は人が良すぎるのか、はたまた理性がはたらき過ぎて場をわきまえ過ぎるのか(?)よくこの目に合うのだ。 相手はこちらの苦悩がわかっていない。とことん喋ってスッキリしているようで、また会って話そうね、とうれしそうに別れていく。(単細胞のあんたが一人でくっちゃべっただけだろうに…) こちらは無駄な時間を費やしたことを悔やみ胃痛とストレスを抱えつつ、金輪際こういう奴の聞き役はご免被るぞ、と決意しつつ帰路に着く。
もちろん、こういう相手というのはそもそもこちらは心を開いていない相手である。心を開いている仲良し相手なら、とにかく話していて面白い。そういうツーカーの相手とはどちらかが話し役でどちらかが聞き役という役割分担など一切ない。自然と会話のキャッチボールがうまくいっていて、充実した時間が過ぎていく。初対面でこういう相手に巡り合えることもある。思考回路や価値観等に共通項があって、いわゆる“相性”がいいのであろう。
この相談者の高校生も、もしかしたら私と同じような経験をして同じような考えを抱いているのかもしれない。ただ未成年であるしまだまだ人生経験が浅くて、今のところ心を開ける相手に巡り合えていないだけなのであろう。十分な自己表現力を内に秘めているのだから何も自分を変える必要はないし、ましてや無理をしてまで心を開いていない相手の“聞き役”をしてさらなるストレスを溜め込む必要などさらさらないと、私ならばアドバイスしてあげたい。
確かに思う存分喋ると爽快感が得られる。そして“喋る”という行為はストレス発散の優れた方法のひとつとして一般的に推奨されてもいる。
ところが、“喋り”とは“聞き役”という相手の人間なくして成立し得ない行為でもある。“喋り”も度を過ぎれば言葉の洪水となりそれが“聞き役”に限りないストレスをもたらす“暴力行為”であることを肝に銘じ、場を読み自分を客観視しつつ“喋って”いただきたいものである。
同じ人はこの世に存在しないのであります。
みんなに自分を分かってもらう必要も無いし、心を開く相手だって人生で何人出会えるか・・・。
オシャベリな人、聞いてるフリの上手な人、その場の雰囲気をすばやく感じて、臨機応変自由自在な人、状況判断の苦手な人。
いい悪いじゃなく、それは人それぞれなのです。
みんな同じじゃなくていいってことを僕の子供に分かって欲しいなーって思います。
・・・だからテレビ見せたくないんだよね。
そうでした。何で今の時代、場をわきまえず一人で喋り続ける人がこれ程多いのかというと、そのひとつの理由としてテレビの影響力が大きいことに気付かせていただきました。
元々一方向性の情報伝達手段であるテレビの俗悪化が、そんな現象に加担しているのでしょうね。
皆個性豊かに育って欲しいのですが、最低限、人の迷惑を考える子に育って欲しいと私は願います。
でしょ?
それまでは、テレビも家族皆で話しながら笑いながら共感しながら見ていたものです。
今や、uba3さんのおっしゃるように赤ちゃんの子守をテレビにさせる親もいるらしいですが…。
人対人のキャッチボールの会話習慣とは赤ちゃんの頃からの積み重ねで育っていくものですね。
言葉のキャッチボールは、本当に大切だと思います。
伴侶に、それが出来る女性を選んだと思います。
子供については、テレビだけではなくゲームの影響もあると感じています。親である私が、買い与えたもので、親子のコミュニケーションの阻害に確実になっています。
時代でしょうか?
そうですか、ドカドンさんは言葉のキャッチボールが出来る奥様をお選びになったのですね!
実は私もそうなんです。私の場合は見合い結婚なのですが、とにかく価値観や思考回路に共通項があって会話が面白い相手ということは重要視しました。今や、お互い我が道を行っている感じですが…。でも、いざという時にはやはりこの共通項は活きます。
ゲームは確かに対話能力を大幅に阻害しそうですね。
我が家はuba3さん宅ほどのポリシーはなく、ただ親がテレビにもゲームにもまったく興味がないため、必然的に子どもも興味を持たなかっただけの話ですが。
幼少の頃から1日何時間もゲームというバーチャル世界で生きる子どもたちに、自己表現力も対話能力も育つはずはなさそうですね。
ドカドンさん、またお気軽にお越し下さいますように!
多くの場合は、頭に上った事を論理性も整合性も検証せず逐一言葉にして吐き出し続けるタイプ。
相手の反応はお構いなしに喋り続けるタイプの人は、「そうだね。そうだね」「あっ、そうなんだぁ」などと相槌さえ打っていればかわす事が出来る場合が多いように思います。
辟易させられるのはこちらの一言半句を捉え、論理的にたたみかけて来るタイプ。
精神的にボディーブローが効いてきます。
特に私などはアスペルガー症候群のため、相手の言葉や態度から言外に言わんとしている事を類推する能力が低くて、自分の上司がそんなタイプだった場合はたまりません。
論理性、整合性なく吐き出し続けるタイプには辟易とさせられます。女性にはこのタイプが多いかも…。こういう相手と付き合うのはとにかく時間の無駄でしかなく、適当に相槌を打ちながら、何とかこの場を早く逃れる方法はないものかとの模索で頭がいっぱいになります。
後者に関しては、論理には論理で対抗できますので、私も燃えます。お酒が入るとこういう場面はよくあるのですが、大声の議論となりさぞや周囲の顰蹙を買っていることでしょう。
Don Tracyさんはアスペルガー症候群でいらっしゃるのですね。
私は教員経験があることや、一切公表していないのですが我が子が類似の事情を抱えて産まれてきていることがありまして子どもと共に歩んできており、その辺には詳しいです。
さぞや、周囲の誤解や無理解にご苦労されたことでしょう。
Don Tracyさん、またブログ本体にお越し下さいますように!
原さん、まず先にこれから私が言うことは恐らく不愉快であり、ひょっとするとコメントをしている皆さんにも同じ思いを抱かせてしまうかも知れませんので、そのように感じましたら、即刻削除して下さい。その時は申し訳ありません。
で、何が言いたいかといいますと・・・。
この記事に対する皆さんのコメントについてです。
テレビが、というのはまだ納得の部分もありますが、ゲームそのものがまるで諸悪の根元のような扱いをされていることに、私は憤りを感じます。
ゲームというものは日頃、少年犯罪や異常行動、コミュニケーション能力の欠如に繋がるなど散々に言われてきましたが、現在は大人どころか、高齢者でも携帯ゲーム機や、まぁまとめてしまえば任天堂のゲーム機ですけど、DSやWiiを楽しんでいるわけです。
今やゲームとは一人で楽しむだけではなく、家族や大勢で楽しめるものへと移行しつつあります。そしてそれは、ゲームという存在がコミュニケーション能力を欠如させる要因どころか、むしろ健全に育成が出来る状況に変わってきた、とも言えます。
現状を良く理解せずに、頭ごなしに否定するのはどうでしょうか。時間とは流動的です。変わらないものはないのです。いつまでも凝り固まったイメージを保とうとするのは、問題なのではないでしょうか。
それに私は、ゲームが好きです。
でもそれによって家族関係に溝を作るようなことにはなっていませんし、これからもならないと断言できます。
責任をゲームに、・・・いえ、別のものに置き換えないで、転嫁しないでもらいたい。冷静に見回せば、きちんと理由は存在するものです。もっともらしいからといって、それを標的にしないで下さい。
・・・長文と、そして失礼な発言をお詫びします。
ただ、好きなものを馬鹿にされた、一方的な的にされたのが許せないと感じた、若造の素直な意見です。
しかし、原さんのブログを純粋に楽しんでいる皆さんに不愉快なコメントを晒したことについては、重ねてお詫び申し上げます・・・。
それでは。