原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

少子化対策として政権が真っ先に着手するべき事柄

2014年03月19日 | 時事論評
 先だっての3月17日埼玉県富士見市に於いて発生した、男性ベビーシッターが母親から預かった幼き2歳男児が遺体にて発見されたとのニュース報道に、衝撃を受けた市民の方々が多い事と察する。


 日本の政府が少子化対策に取組み始めて既に20年に及ぼうとしているが、合計特殊出生率は思うような回復をみない。 
 そこで安倍内閣は、昨年(2013年)6月「少子化対策」に関し4年ぶりとなる「骨太の方針」(正式名称:経済財政運営と改革の基本方針)を閣議決定し、女性の活躍促進や少子化危機突破に向けた方針を盛り込んだ。
 これらの対策を実質上まとめてきた森雅子少子化対策担当大臣に対して、某国内機関が多岐にわたって全貌が見えにくい対策について取材したところ、 森大臣曰く「安倍政権による少子化対策とは骨太の方針に入ったとが特徴であり、その方針とは「(少子化対策を)着実に実行する」との意味だそうだ。
 (以上、ネット情報の一部を原左都子が多少アレンジして紹介したもの。)


 上記の安倍政権「少子化対策における『骨太の方針』」はその後我が国の少子化対策に於いて功を奏しているであろうか?  真なる「女性の活躍促進」に繋がっているのだろうか??

 確かに国内一部の自治体では、公立保育所の受入れ可能乳幼児数枠を増加させるべく努力しているとの報道を見聞する。 加えて「保育士」の賃金アップ指針を導入する等々の政策により、乳幼児受入れ体制の質の向上確保も予定されているとの情報も目にする。

 上記「少子化対策」に関する国や自治体からの“一見明るい”ニュース報道の陰で、冒頭の3月17日に発生したベビーシッター事件に対し、厚労省は以下のコメントを発しているようだ。
 厚労省曰く、ベビーシッターに必要な公的資格はなく利用者も把握していない。
 行政のチェックが届かない中、ネット上にはベビーシッターを探す人とその成り手が情報交換するサイトが複数あり、必要に迫られた親らが利用している。
 (以上、朝日新聞3月18日記事より引用。)


 私論だが、厚労省はネット情報で上記の巷の親達の事態を認識していながら、何故早急に手立てを打たないのかと憤るばかりだ。
 一体誰のため、何のための「骨太の方針」少子化対策なのか!? 

 ネット上の胡散臭いベビーシッターに可愛い我が子の一時保育を依存せねばならない切羽詰まった親の実情を政権は如何に理解しているのか! 
 数値上の数や量のみ整えるとの実態のない「少子化対策」にばかり依存して現実を見ないからこのような事件が起こるのだ。


 ここで私事に入るが、私も一女を持つ母親である。

 私の場合、我が子が多少の事情を抱えてこの世に生を受けたとの特例性もあろうが、特に我が子幼き頃には「誰でもいいからベビーシッターを依頼して一時何処かへ避難したい!」なる妄想が我が脳裏に付きまとうことを経験している。 
 今となってはそんな切羽詰まった感情を如何に処理し得たのかの記憶が薄れているのだが、おそらく当時はまだまだ現実世界での人間関係が充実していた時代背景であり、我が友人達を自宅に招くことによりその苦しい時代を潜り抜けたのではないかと振り返る。

 更には、我が子が小学校の児童となった以降にも、この場面は「ベビーシッター」に依存したい、なるシチュエーションを経験している。
 当時は未だネットなき時代背景だったが、我が調査力により「子供を習い事教室まで送迎してくれるサービス」を新聞上で発見した。 当時仕事を持っていた私は、「これは使える!」と実感したものだ。 結果としては、娘の希望等により自分の仕事時間を短縮する事によりそのサービス利用を回避したのだが…


 要するに冒頭に記した「ベビーシッターによる幼児死体遺棄事件」とは、私も過去に経験しようと志した民間業者によるベビーシッター派遣サービスの発展型(劣化型?)で起こってしまった幼児死亡との残虐な事件だったのではあるまいか??

 これに関して、それを利用した親側からの経験に関する朝日新聞3月18日記事を以下に紹介しよう。
 ネット上で気軽に見つけられるベビーシッターを頼りにする親は少なくない。
 例えば6歳男児がいる家庭では、子供がインフルエンザに罹った時に初めてネット上でシッターを見つけ預けた。 普段は公立保育園を利用しているが、感染症発症の場合(公立保育所では)5日間登園出来ないため預け先を探す必要性に迫られた。 その時サイト掲示板の存在を知り、メール上のやり取りを信頼して預かってもらえた。 子どもを預けた女性曰く「近くに頼れる親戚もおらず、八方ふさがりの現状だった。知らない人を頼るのは不安だが、良心に賭けるしかしかたないとまで覚悟して預けた」


 「原左都子エッセイ集」2011年11月26日バックナンバーに「足が腐った男」なるエッセイがある。
 どういう訳か公開から2年以上を経過した今尚、当該バックナンバーが我がエッセイ集に於いて「スタンダードナンバー」とも位置付けられる程の数多くの閲覧を日々頂戴している。

 上記バックナンバー 「足が腐った男」より結論部分の一部を以下に再び紹介しよう。

 国や自治体等の役所においては、市民自らが役所に出向いて申請書を提出する“能力”を保有している(ある程度恵まれた)“弱者”に対しては、例えば「生活保護」対象とする等手厚く支援している有様である。 
 片や、上記のごとく電車内で“腐った足”を晒して眠りこけている人種が役所にその種の申請書を提出しているとは到底考えられない現状だ。  
 私に言わせてもらうと、この種の“真正弱者”こそを国や自治体は最優先して救うべきではないのか??
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 それは、安倍政権に於ける「少子化対策」に於いても同様ではあるまいか??
 
 「少子化対策」に於いて「骨太」意見を表立って差し出せる能力ある市民のみを「女性の活躍促進」対策として前面に出しその救済対象とするのではなく、安倍総理及び森雅子大臣には是非共今回の悲惨な事件を脳裏に刻んで欲しい思いだ。

 これ程混乱した我が国の現世に於いて子供を産もうとの勇気ある女性達とは、貴方達政治家が抱いているイメージよりもずっと多様性がある事実を認識して欲しい思いだ。
 貴方達政治家が認識している事実より遥かに「貧困」を経験されている家庭にも“赤ちゃん”が誕生してよいであろうし、その赤ちゃんの成長を原左都子とて願いたい。

 更には、何故現世の女性が子どもを産むことを欲するのかあるいは欲しないのかの選択に関して、政権政治家達の真なる分析・認識が及んだ暁に、やっとこの国の「少子化対策」が生命を宿すのではないかと私は信じている。

著名学者とは常に“堅物人間”を演じねばならないのか?

2014年03月17日 | 時事論評
 朝日新聞土曜日別刷「be」に毎週掲載されている「悩みのるつぼ」のファンである原左都子にとって、意表を突かれる報道をネット上で目にした。

 その報道とは、何でも「悩みのるつぼ」の一回答者であられる社会学者 上野千鶴子氏が担当した過去の同コラム相談回答内容に“不適切な部分”があるとの理由により、山梨市は予定していた上野氏講演会中止決断を下す事態と相成った、なる内容だ。


 ここで原左都子の脳裏に一番最初に思い浮かんだのは、朝日新聞「悩みのるつぼ」コーナーとは、そもそも世の物議を醸し社会問題に発展するがごとくの切迫した議論対象となるべき“物々しい”コラムなのであろうか? との違和感である。

 確かに相談者が未熟な年少者である場合は、回答者はその回答内容に慎重さを要求される要素はあろう。 その種の相談も時折見かけることがある事を私も心得ている。
 ところが「悩みのるつぼ」相談内容の大半とは、いい年こいた大人が“身勝手な自身の過ちを暴露”している実態との感覚が否めない側面もあるのだ。

 そもそも朝日新聞「be」自体が本誌から隔離した“別刷”との場を土曜日に設け、読者の娯楽対象としているものと私は解釈している。
 それ故に「悩みのるつぼ」に於いてもその回答内容とは“娯楽性”があって当然許されるだろうし、もっと発展思考で発言するならば、世の多様性に適応した回答こそが読者の興味や共感を導くものと私は理解している。


 さて先ほどネット情報を検索したところ、今回の山梨市の公演中止判断に対して上野千鶴子氏ご本人が発表されたと思しき情報を入手した。
 その内容の一部を以下に紹介しよう。

 「過去の発言」のやり玉にあげられているのが「悩みのるつぼ」の回答。 「(性的欲求不満のはけ口を)熟女にお願いしなさい」 という回答のどこが問題なのでしょうか。 「依頼」であって「強制」ではありませんし、「相手のいやがることはぜったいにしないこと」 それに「避妊の準備も忘れずに」と書いてあります。 淫行条例に違反するという指摘もありましたが、中学生に性交を禁じる法律はありません。成人が児童(18歳未満)に「みだらな行為」をすることは禁止されていますが、中学生が大人に「お願い」するのを禁じることはできないでしょう。 15歳といえば昔なら元服の年齢。妻を娶ることもできました。この回答を問題視する人達はまさか「結婚まで童貞を守りなさい」とは言わないでしょうね?
 (上野氏著書である)『セクシィギャルの大研究』『スカートの下の劇場』をきちんと読んでみてください。いずれも実証研究にもとづいた、そうは見えないけれど学術書です。『セクシィギャルの大研究』はCM写真の記号論的研究、『スカートの下の劇場』は下着の歴史研究です。いずれのタイトルにも「セックス」も「パンティ」も入っていません。仮に入っていたからといって何が問題なのでしょう?まさか性を論じることがタブーだというのではないでしょうね? 性を論じる人物は、それだけで講師として不適任だと?
 というわけでうえのは「過去の発言」について、天にも地にも恥じるところはありません。しかも以上の「過去の発言」のいずれも今回のテーマである「介護」には無関係です。それを理由に「中止」を決定するのは言いがかりとしか思えません。
 (以上、上野千鶴子氏ご本人の発言と思しきネット情報から一部を引用。)


 上記上野千鶴子氏よりのネット上の「反論」と思しき“挑戦状”を真摯に受け止めたのか、本日3月17日に、山梨県山梨市が社会学者上野氏講演会 「ひとりでも最期まで在宅で」を中止するとした問題に関し、市が中止を撤回し講演会を予定通り明日3月18日に開催することが分かった、との報道だ。

 山梨市によると、中止が報じられた14日以降市民から開催を求める意見が相次いだことから、市の担当者が市長に翻意を促し、一転開催が決まった。 担当者が16日夜、上野さんに電話で伝えた。その際、「介護以外の話をしない」ことを上野さんに確認し、同意を得たという。


 今回の上野氏関連“事件”に関して原左都子が多少懸念するのは、朝日新聞「悩みのるつぼ」への相談者が若齢の15歳少年であった事だ。 
 人生経験をさほど積んでいないと推測可能な少年に対して、「性的ストレスのはけ口として熟女に依存しよう」との上野千鶴子氏の回答は、衝撃が余りにも大き過ぎるのではないかと推測する。 もっと別の観点からの回答も可能だったような思いもある。
 

 ただ、現世とは平均的人種の価値観を超え凄まじいまでに人々が“多様化”しているのが現実でもあろう。

 今回、社会学者であられる上野千鶴子氏が山梨市にて講演する議題とは 「ひとりでも最期まで在宅で」 との内容のようだ。
 高齢化が急激に進んでいる現在の世の中にあっては、種々多様な高齢者が存在してよいに決まっているではないか!
 この原左都子とて今後ますます高齢域に達する状況下で我が身を取り巻くすべての“しがらみ”から解放された暁には、今一度独り身で“青春”を楽しみたい所存だ。

 そんな風に、今後の高齢者とは更なる多様性を追及しつつ年老いて行くべくこの世の実態と私は捉えている。

 その現実に即した場合、上野千鶴子氏が明日(18日)山梨市で行う高齢者相手の講演会に於いても、その講演内容を開催者側が限定するのではなく、上野氏の自由闊達気ままな発言を展開する事こそが高齢に差し掛かっている人々の真の刺戟となるのではあるまいか。

要らないのに捨てられないジレンマ

2014年03月16日 | その他オピニオン
 おそらく何処のご家庭にも、「要らないのに捨てられない“モノ”や“ヒト”」が少なからず散在していることであろう。

 いえいえ、大変失礼申し上げました。
 “ヒト”に関する考察は別の機会に回すとして、今回のエッセイでは「要らないのに捨てられない“モノ”」を分析対象とさせていただこう。


 私事を語れば、我が家にも「要らないのに捨てられないモノ」をあちらこちらに放置したり収納したりの実態だ。
 
 今現時点で周囲(参考のため私は当該エッセイをリビングルームの一角に机を置いて綴っているが)を見渡してみても、古くなって使用していないパソコンやプリンター、エッセイを綴るために参照した膨大な量のスクラップ等資料や文献、今となっては一切視聴しないDVDやCD、古くなった絵画や美術品をはじめホコリを被ったまま放置されている室内装飾品、現在では家族の誰もが紐解くことのない本棚内の年代物学術書籍や文学本の数々、極めつけはリビングルーム内面積を一番占領しているピアノとエレクトーン……

 台所に視野を移すと、料理嫌いで名高い私が一切使用する気もないのに場所ばかりとっている食器や調理器具、そして賞味期限切れの缶詰等保存食品が保存棚に蔓延り…

 押し入れや収納庫内は、正直言って「要らないモノ」だらけの実態だ。

 私の場合、決してこれらを怠慢気質で放置している訳ではない。 むしろ綺麗好き、整理整頓好きの私であるが故に、定期的に各部屋を覗き、廃棄処分対象物を分別する作業を実施して廃棄処分を行っている。


 ところが、どうしても「要らないモノ」を廃棄処分出来ない心理が私なりにあるのだ。
 それはそのモノに対する“思い入れ感情”こそが主たる要因である。

 例えば、我が娘が幼き頃より少女時代に制作した拙い美術作品等々がその最たる“モノ”だ。 既に成人している娘に確認し「廃棄処分していい」との承諾を得ているものにもかかわらず、親の心理としてはどうしても捨てられない。
 あるいは本棚にある学術書などは私(及び亭主)が現役時代に学問及び科学研究とかかわった人生の歴史を物語る書物群であり、私としては痴呆症寸前に至るまで保存しておきたい思い入れが強い。
 料理嫌いで名高い私として一番捨てていいのは台所や収納庫内の食器や調理器具なのだが、これに関しては我が娘が将来的にこれらを使用する事も視野に入れ、高価なものに限定して一応保管することにしている。

 そんな原左都子であるが、実はつい先だって我が家のクローゼット内に保管していた“洋服及び服飾品類”を大々的に処分する事と相成った。

 深刻な豪雪被害の傷跡を未だ残している日本列島であるが、私が住む東京地方では日によっては春らしい日和が訪れる季節に移ろいでいる。
 春を迎えるに先立ち、我が家のクローゼット内不要洋服類を「古着屋」に売ってはどうかなる提案を我が娘にしたところ、娘が快く応じてくれた。
 我がタンス内と娘のクローゼット内から“要らない洋服及び服飾品類”の中でも新品やさほど着用していない物品をかき集め、全部で30点ほどに達した。

 それを古着屋に売りに行くとの手段に出た結果、如何程のフィードバックがあったかに関して以下に提示しよう。

 購入後全く使用する機会がなく保存してあった物品に関しては、ある程度の引取り価格設定がなされたようだ。 それにしてもそのフィードバック価格とは商品定価の3%に満たない低額である。
 いわんや一度でも着用した衣類に関しては、すべて「1円」ないし「0円」との引取り価格だった。
 更にはたとえブランド物であれ、現在まったく流行っていない物品に関しては やはり「1円」評価であるようだ。
 加えて過去に一時流行ったブランド品であれ、一度洗濯が施された物品とは「0円」の価値であるらしい。

 要するに、「今現在流行っていて、尚且つそれがブランド未使用品ならある程度の高価格で買い取る」とのポリシーを「古着屋」は持っているものと私は解釈した。
 それ以外の物品に関しても店舗内で再販売(あるいは店が責任持って廃棄処分)するけれども、買い取り価格は 「1円か0円」 との結論である。


 たとえそうだとしても、娘と二人で古着30着との重い荷物を「古着屋」まで運んで正解だった、との感覚を今も抱いている。
 これを「古着屋」で再販売してもらった方が、自宅から不要物として捨て去るよりも誰かに「再利用」されることとなるとのかすかな希望が繋げるからだ。

 そこで“モノ”に関して、要らないのに捨てられないジレンマに陥っている皆さんに提言申し上げたい。

 着用しないが自分で廃棄処分し難い洋服等に関しては、古着屋やバザーを活用するなり、自治体の古布回収システムを利用しては如何だろうか。
 それをゴミとして捨て去るよりも社会にリサイクルできそうな微々たる貢献感が得られるという事だ。

STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した

2014年03月12日 | 学問・研究
 「何だか胡散臭いなあ…」

 これは、1か月少し前に理化学研究所研究員 小保方晴子氏より科学誌「ネイチャー」上に発表されたSTAP細胞に関する論文内容が、世紀の大発見のごとく大々的にメディア上で取り上げられた直後に抱いた原左都子の疑惑感である。

 当時の小保方氏会見によると、(STAP細胞が)「簡単に出来た」、「偶然出来た」 …… 

 科学の発明や発見には、確かに偶然性がつきものではあろう。 ただ、その偶然性の根拠こそを徹底的に検証し得た後に初めて、「発見」とはこの世に日の目を見ることが許されるのではなかろうか??
 ところが小保方氏の論文の場合、その検証が一切なされない間に、論文内容のみが世界中を“大手を振って”独り歩きしてしまっている印象を受けた。


 だからこそ、私は「原左都子エッセイ集」2014.2.3バックナンバー 「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」 内で、以下の記述をしている。

 つい先だって、理化学研究所の研究員であられる小保方晴子氏(30歳)が、マウス動物実験に於いて新型万能細胞であるSTAP細胞の作成に成功した事実が世界中で報道された。
現時点では未だマウス動物実験結果に過ぎない段階の「STAP細胞」に関する私見を公開することは差し控え、この実験の成果が一段階進捗した時点で、元医学関係者である原左都子の私論を公開したいと考えている。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より一部を引用。)


 上記の我がバックナンバー内容の通り、未だ動物実験段階の域を超えていない医学基礎研究成果が世界的トピックスになる事自体に、違和感を抱かされる。
 一昨年ノーベル医学賞を受賞された、山中教授の「iPS細胞」研究も同様に、再生医療分野に於いては未だ初期段階だった。 この事実に関しても、私はバックナンバーで異論を唱えている。 (特に科学分野の)ノーベル賞とは既に世界に貢献した研究や成果に対して与えられるべき賞ではなかろうか、と。 今後の臨床医学への発展性が未知数の「iPS細胞」研究に世界に名だたる賞を与えるのは時期尚早!、との私論を展開している。

 ましてや、今回の小保方氏によるSTAP細胞研究論文内容に関しては各方面から次の指摘がある。
 「画像の使い回しがある」「海外の研究者と同様の記述がある」「公開されたSTAP細胞作成法の手順書に符号しない点がある」等々… 
 論文発表時の常識を覆す初歩的段階の疑惑が各方面から提示される事態など、科学研究論文発表に於いては許し難き不祥事であり、言語道断だ。


 ここで改めて、メディア上で発表されている“小保方氏STAP細胞”疑惑に関する情報の一部を以下に紹介しよう。

 理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダー(30)らが発表した新万能細胞「STAP細胞」の論文の画像に不自然な点が指摘されている問題で、共同研究者の若山照彦山梨大教授は3月10日、同大で取材に応じ「STAP細胞が分化したという証拠がない」と述べた。
 若山教授は「間違いがあったかどうか、論文の将来のためにも1回取り下げて、厳しい審査にかけた方がいい」と話した。小保方氏らには同日午後、論文の取り下げを勧めるメールを送ったという。
 若山教授はホームページでもコメントを発表し、小保方氏らから提供されたSTAP細胞を公的な第三者機関に提供し、分析を依頼する考えを示した。

 理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーらが1月末、「人工多能性幹細胞(iPS細胞)より簡単にできる」と発表したSTAP(スタップ)細胞。 論文に疑惑が浮上してから約1カ月後の3月11日、初めて記者会見した理研の加賀屋悟広報室長は「誤解を生んだことは反省している。そんなに簡単にできない」と陳謝した。
 小保方氏らは、マウスの細胞を弱酸性液に浸したり、細いガラス管に何回も通したりする簡単な操作でSTAP細胞ができると発表。3~4種類の遺伝子を導入して作るiPS細胞に比べ、早く効率良くできるとアピールし、国内外で大きな注目を集めた。
 一方、iPS細胞の開発者でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥京都大教授は2月10日、異例の記者会見を開き、理研の発表にはiPS細胞の最新の研究成果が反映されておらず、誤解があると訴えた。
 これに対し、理研の加賀屋室長はSTAP細胞論文の日本語発表資料について「iPS細胞と比較した所は科学的に不十分な点があった」と述べた。その上で「STAP細胞は再現実験が行われているが、なかなかできていないのが現実。刺激(を与える作製法)としては簡単に見えるが、そんなに簡単にできるものではない」と認めた。 
 (以上、ネット情報より2例を引用。)


 朝日新聞3月11日報道によると、小保方晴子氏自身は「様々な指摘を真摯に受け止める」と説明しているらしい。

 これに多少救われる思いの原左都子だ。
 まさかまさか、小保方氏がメディア上で「美人リケジョ」などと一時騒がれた事にうつつを抜かす程の単細胞・低能人種ではなかったことに、ひとまず安心の私である。

 
 それにしても…

 科学分野の基礎研究者たる者達よ。 
 貴方達が現在行っている研究成果がこの世の未来を揺り動かす程の影響力がある事実を認識し、その影響に対する使命感を持って研究に臨んで欲しい思いだ。

 確かに今の時代、世界規模での競争が科学基礎研究分野にも蔓延り激化している現実を私も把握している。

 そうだとして、何故論文発表の時期をそれ程までに急ぐのだろう。
 その原動力とは、貴方の名誉欲に端を発しているのか?
 あるいは、世界に先駆けて「特許」を取得して経済力を得ることにより、今後の身の繁栄に繋げたいのか?? 
 はたまた、自分こそが「美人リケジョ」として狭い世間で名を売りたいのか???

 そんな取るに足りない事象よりも、宇宙規模での科学の発展こそが人類をはじめとする地球の進化を望める観点を、深い思慮を持って基礎科学研究者達に抱いて欲しい思いだ。

悪口を言われる事とは自身に存在感がある証拠

2014年03月10日 | 人間関係
 原左都子のこれまでの人生を思い返してみるに、他人に“陰で”悪口を言われた経験はない(あるいは、覚えていないと言った方が正確か?)ような気がする。

 いえいえ、現在の私はこのようにネット上でブログなどを公開している関係で、特に「原左都子エッセイ集」開設初期段階に於いては、「悪口」(というよりも「誹謗中傷」と表現するべきか?)が届くことを少なからず経験している。
 ただ私の場合、“陰で”コソコソとそれを実行する読者とはほんの一握りであり、ほとんどが直接私にその思いをぶつけてくれることが幸いしているとも言える。
 要するにそれらは決して私に対する「悪口」や「誹謗中傷」ではなく、「議論」と解釈するべきだろう。 それ故に、現在に至っても我がエッセイ集宛に頂戴した「議論事項」に関しては、必ずや個別にご返答申し上げる事を実行している。


 このように陰で「悪口」を言われた記憶がない私であるが、我が今までの人生に於いて他者から面と向かって 「あなたが嫌いだ!」 と直言された経験は何度かある。
 それら“直言”に関しては今尚我が脳裏に鮮明な記憶があるため、以下にその経験の一つを記そう。 (本エッセイ集バックナンバーでも紹介しているので、ご記憶の読者の方々が存在することを承知しつつ…)

 我が第二次反抗期、小学6年生頃の出来事である。
 当時より既に大いなる“天邪鬼批判気質”を内に秘めていた私は、早くも学級担任先生批判を展開した。 その批判の手段とは国語の時間に課せられた作文内なのだが、私は「学級担任とは“えこひいき”をするべきでない」なる表題の作文を仕上げて提出した。
 作文提出直後に私は担任から教室内全生徒の面前で“吊し上げ”措置を食らったのに加えて、一男子生徒より「お前が嫌いだ!」なる直訴を受ける事態と相成った。  男子生徒曰く、「クラスの皆が仲良くしようとしているのに、何でお前だけが反発ばかりしているのだ! お前のような奴がクラスにいるのは迷惑だし、先生が可愛そうだよ!」   この一男子生徒よりの暴言に、私は敢えて反論はしなかった。 幼き頭で“自分の論理こそが正しい!”と信じていたから黙って耐えた。
 その後の教室内では、特に目立った動きはなかった。 クラスの誰かがどちらかに迎合するでもなく卒業式の日を迎えた。  ただ大人であるはずの担任だけは、私に対する“憎しみ”の思いが卒業後も募っていたようだが… 


 本日このエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞3月8日別刷「be」 “悩みのるつぼ”を見たことによる。

 中学3年生15歳女子による相談内容とは、「人から悪口を言われたくない」とのことだ。

 その内容を紹介する以前に原左都子が疑ったのは、この少女は本当に周囲から「悪口を言われているのか?」との真相部分である。
 
 ご本人の投書曰く、「昔は今よりも静かで人付き合いも悪く、周囲からの印象もよくなかったかもしれない」 「小学4年の時に転校したのを機に努めて明るくしユーモアをもって話すことができるようになった」 「それでも他人からあることないこと悪く言われる」……  春から高校生だし、今後は他人から悪口を言われない高校生活を謳歌したい……

 ここで原左都子が上記女子中学生を評価するならば、“感受性が強く周囲の反応を推し量れる頭脳も持ち合わせているが、反面、繊細過ぎるが故に自分自身の総合評価が出来ていないのかな?” 加えて“例えば親からの評価はどう処理しているのだろう? 未だ中学生段階では、女子生徒の総合評価において親の判断も必要と結論付けるが…” ……


 ここで、今回の朝日新聞“悩みのるつぼ”回答者であられる 評論家 岡田斗司夫氏よりの回答内容の一部を以下に紹介しよう。

 悪口は、それ自体は悪意のない場合が多い。 でも参加してくれない人がいたら自分たちがやっていることが急に薄汚くみっともないことに思える。 無いはずの「悪意」まであるような気がする。 
 ためしに私(岡田斗司夫氏)の名前をネットで検索してみてください。 誉めてくれる件数の10倍、悪口があふれています。
 (以上、朝日新聞3月8日 「悩みのるつぼ」 岡田斗司夫氏回答より一部を引用。)


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 まずは“悩みのるつぼ”回答者であられる評論家 岡田斗司夫先生に一言申し上げたい事がある。

 貴方は今現在、著名人の立場であられるはずだ。 にもかかわらず、ネット上で自分に対する庶民からの「悪口」が氾濫しているとの記述を朝日新聞紙上で公開されている事実に違和感を抱く私だ。 著名人を自覚している人々の常識に於いて、その発言は控えるべきではあるまいか? 
 もしかしたら、岡田斗司夫氏とは繊細な心をお持ちの方とも推測申し上げるが、少なくとも著名人の貴方に押し寄せる庶民からの反応を「悪口」と表現する事とは、あなたのファンを排除するべく行為ではなかろうか??
 重ねて私論だが、報道メジャー朝日新聞紙上との恵まれた場面で、岡田氏のプライベート感情を露出する必然性などなかったものと捉えるのだが如何だろうか。 もしかしたら岡田氏とは、私のような庶民からのこの種の提言すら、ご自身への「悪口」と判断して排除されるのであろうか??

 
 片や、“悩みのるつぼ”相談者である15歳中学生にも私から一言提言したい思いだ。

 貴女は、小さい頃より現在に至るまで周囲の皆に陰で悪口を言われてきたと勘違いした道程を歩んだようだ。
 どうだろう。 もしも貴女が今まで一度も周囲から「悪口」を“直言”された経験がないのならば、今後は取るに足りない周囲の反応を気にするより、自身の将来性こそを見つめてはどうだろうか?

 この私など幼き頃に“お前が嫌いだ!”との「悪口」を周囲から“直言”されたことがきっかけで我が“天邪鬼気質”を再確認して、この世を力強く生き延びているとも表現可能だ。 そんな批判精神旺盛な自分を肯定できることを武器として、今後も年老いていくつもりだよ!