原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我が義母・実母両人が本日迎えた「母の日」に関する私観

2018年05月13日 | 人間関係
 本日は「母の日」のようだ。


 上記のごとく敢えて「ようだ」との表現を使用するのは、私自身が我が娘から「母の日」のプレゼントなどただの一度も貰った事も無ければ、欲しいとの発想がある訳も無いからだ。


 一方、特に義母に対して、(義母にとっては孫に当たる)娘から「母の日」のプレゼントを手渡す事を、義母が高齢者施設入居後より“娘”に指導して来ている。
 その方が、私から手渡すよりも義母が喜ぶからに他ならない。

 義母の施設保証人を担当しそれを6年来実行している私であるが。 義母にとって嫁に当たる私に対し義母側に未だ遠慮心があるのを私が嗅ぎ取らない訳も無い。  いや、この義母の私に対する“遠慮心”を、義母の認知症状が進んだ現在尚私側が感じられるからこそ、私と義母との関係が滞ることなく良好に続行していると私側も重々把握している。
 だからこそ、敢えて「母の日」には 娘からプレゼントを手渡させる事が恒例となっているのだ。

 本日午前中、既に娘より手渡していた「母の日」のプレゼント御礼電話が義母よりあった。
 いつもの事だが、実際手渡した娘へではなく、私宛の電話だった。
 義母の耳の遠さ故に電話を通しての私の音声が義母に通じにくい事実に、いつものごとく困惑させれらる。
 それでも、義母が私に伝えたかった「私への日頃の感謝」とのメッセージを重々受け取った旨を電話で表現するのに難儀させられたが、どうやらそれが叶った様子でこちらも安堵して電話を切った。


 義母からの電話に先立って、本日朝電話を寄越したのが郷里の実母だ。
 実母が電話にて、娘の私に「母の日」菓子折(こちらは毎年私の名前でネット利用宅配便で送っているのだが)のお礼を告げた後…。

 実母の話題は先だっての「真夜中の電話」に移った。
 実母の場合、認知症状は見当たらない(我が診断では微少に存在するかもしれないが…)ため、自身が引き起こした当該事件を鮮明に記憶していたのだ。
 そして電話で私に謝罪しつつ、当夜自分が置かれていた状況を私に告げる。 要するに、実母としては確実に夜中に携帯電話が光を発するのを見た!とのことだ。
 それに私が応えて、携帯電話をONにした状況下で確かに「無料ニュース」等の電光着信がある事実も説明した。 残念ながら、それが実母にとって理解不能だったようだ…。  話題を変え、とにかく携帯電話とは自身の「誤作動」が多いために、「この私でも過去に受け取ったメールに返答してしまうとの失敗もある」…  旨を話しても、やはり実母には理解不能だ…。
 ただ私がそこまで話した後に、実母から出た回答とは! 「私は〇子(私の事)のメールしか受け取っていない。 という事は、私があの夜受け取ったと勘違いしたのは、もしかしたら〇子からの過去のメールだったかもしれない。」
 そこまで聞いて、私も納得した。 この実母、私にとって迷惑な存在と邪険に思う今日この頃だったが、我がIQの高さは恐らくこの母譲りだ! と確信した実母からの電話でもあった。
 そして実母が私に詫びて曰く、「今後、断じて夜中に電話をかけて〇子を苦しめないように心する!」

 上記2本の義母・実母よりの電話内容を振る返るに、私にとって本日は実によき「母の日」であった。


 話題を変え、本日昼間NHKのニュース報道を見聞していると。 
 本日「母の日」に際し、幼き女児の映像が流された。

 その女児が「母の日」のプレゼントに添えた文言が……。
 「お母さん、いつも美味しい料理や、洗濯をしてくれてありがとう」 だったのだ……
 いやはや原左都子としては、実に愕然とさせられた。
 一家のお母さんが「家政婦」の働きを強制されていた時代など、遠い昔の事と信じていた私だが…
 (いえいえ、もちろん母親がその働きをすること自体を否定する訳ではない。 ただ、母親たる人物の人間像も多彩である。 その多彩さの中で、自分が育てている子がもしも母親の「家政婦」たる働きのみに注目しているとした場合の大いなる違和感を、私は訴えたいのだ。)

 今尚、その(家政婦たる)働きを果たしている母親が存在する事実を褒め讃えねばならないこの国の側面もあろう。

 ただ現在の母親像は実に多様化を遂げていると、本日「母の日」に際して是非とも信じたいものだ!  
 

「ボクは将来“ミスタードーナツ”で働くんだ!♪」

2018年05月12日 | 仕事・就職
 昨日、自宅近くの大規模公園でランニング練習を終えて、帰り道を歩いていた時のことだ。


 後方から、母親と幼児(坊や)の二人連れが楽しそうに歩いて来る。

 その坊やが曰く、「ボクは将来 “ミスタードーナツ” で働くんだ!♪♪」
 即刻母親が応えて、「へえ、そんな夢をもう抱いてたのね!  ははあ、ミスタードーナツで働くと、毎日たくさんドーナツが食べられると思ってるんでしょ!?」🍩🍩🍩🍩🍩
 (実はこの私もまあそんなところだろうと思いつつ、二人の微笑ましい会話に耳を傾けていた。)

 そうしたところ、坊やが間髪入れずに反論に出るではないか! 
 「ちがうよ!!  ドーナツを“作る人”になるんだよ!!!」
 母親がその回答に驚いて曰く、「えーーーーーー!!  そうだったの! 凄いね!! そうしたら、これからはドーナツを作る勉強を頑張ろうね!」
 坊や応えて、「うん。 頑張るよ!!」


 何とも、二重三重に “よくできた” 親子だ。
 何だか感動して、涙が出そうになった私だ。

 まず、この坊や本人が実に素晴らしい! よくぞまあその若さ(幼さ)で、身の丈の将来の職業希望を抱いたものだ。 
 もしかしたら、幼稚園の粘土細工で「ドーナツ」を作ったのが楽しかったのかもしれない。 あるいは、お母さんと二人で行ったミスタードーナツのドーナツが本当に美味しくて、感激したのかもしれない。 ここは自分こそがドーナツを作る人になって、世の中の人を喜ばせたいとの夢を抱いた事も想像可能だ。

 そして、母親氏の応答がこれまた素晴らしい!
 ややもすると、「何言ってるの。 もっと大きな夢を抱きなさい。 末は博士か大臣(か医師か弁護士)よ! ちゃんと学校のお勉強を頑張って、それから将来の職業を決めなさい。」などと、自分が叶わなかった夢を無責任に子供に押し付ける親どもは多い事だろう。
 あるいは、「公務員になったら将来ずっと安泰に暮らせるよ」などと年端も行かない子を掴まえて、夢も希望もない現実戯言を本音で語る親が現在増殖中とも聞く。

 坊や、君は恵まれてるよ。
 そうやってお母さんに明るく元気に自分の夢を語れ、それを受け入れてくれる母親がそばにいるのだから。
 坊やの素晴らしい夢が叶う事を、左都子おばちゃんも応援しているよ!


 ここで話題を変えて、「ドーナツを作る人」を目指す君へ、ドーナツにまつわる面白い話をプレゼントしよう。
 (以下に、「原左都子エッセイ集」2012.09.22 公開の「ドーナツの穴のパラドックス」より一部を要約引用させていただこう。)

 「ドーナツの穴のパラドックス」と題した当該エッセイの以下の話題は、アンサイクロペディアとの“信憑性がない”らしきネット情報源からの引用だが。
 ドーナツ穴問題、あるいはドーナツのパラドックスとは、宗教学、自然科学、哲学、量子力学上の一連の問いである。 歴史は古く紀元前から存在したと考えられているが、最終的に解決を見たのは20世紀に入ってからである。
 ドーナツの穴が、ドーナツそのものよりも大きくなることはあるか? に関しては多くの学者はこの命題に対して否定的だったが、1935年にアルバート・アインシュタインが論文「ドーナツ穴相対性理論」にて肯定的な解を証明すると世界的な反響を呼んだ。??
 古代(紀元前3世紀~5世紀)において問題とされたのはドーナツではなく中心に穴の開いた一種のパンであった。 当時のパンは製法がごく簡単なもので、生地は固くぼそぼそした食感だった。 そのため丸く均等な穴を保って焼きあげるのには相当な技術が必要とされ、パン職人たちの腕が競われた。 エジプトにて紀元前3世紀ごろとされる遺跡から環状のくぼみのついたかまどが発見されており、穴あきパンを焼くためのかまどであったと推定されている。 (以下略)
 中世(5世紀~15世紀)闘争と挫折。   中世のヨーロッパにおいて、兵糧としてのパンは製造法が確立され、生産性は飛躍的に向上した。 その一方で形状としては丸パンが一般的となり、ドーナツ穴問題は一時的に下火になる。 しかしこの間にも、数学者やギルド(職能組合)組合員による試行錯誤は続けられている。 (以下略)
 ドーナツ穴問題と同種の形而上学の問題が提起され、こちらの解はこの時代にすでに見つかっている。
 中世末期にはひとつの重要な発明があった。 ドイツにおけるバウムクーヘンの発明である。 15世紀に南ドイツで貴族の結婚式などに供されていたこのケーキは、木の年輪のように層になった円筒形をしており、各層ごとにはがして食べることが可能である。 これにより半径の推移を定式化することができ、ドーナツ穴数学の発展に大きく貢献した。 (中略) しかし、ドーナツがおおよそトーラスの形をしているのに対してバウムクーヘンは厚みを持った円筒形であり、幾何学上の扱いの違いには注意を要する。
  近世-現代(16世紀~)。  ドーナツ、そして解決へ 多くの学者が頭を悩ませる中、問題は未解決のままであった。 (以下、大幅略)
 ついにこの問題に終止符を打ったのは20世紀最大の天才と呼ばれる物理学者アルバート・アインシュタインである。 ナチスに迫害される身となったアインシュタインは、アメリカへの亡命後にリングドーナツに触れ、深い感銘を受けた。その後論文の執筆を開始し、1935年に「ドーナツ穴相対性理論」を発表。その大胆な理論展開と逆転の発想で世界中の学者たちを驚愕させた。 アインシュタイン自身は論文の序説に次のように述べている。  私にとってドーナツというお菓子は好物の一つであるが、世の科学者がこれについて頭を悩ませているのは嘆かわしいことだ。 ドーナツは研究の余暇に楽しむものであって、このことを頭痛の種にすべきではない。論文の内容を要約すると、「物事はすべて相対的であって、ドーナツの穴を外側と捉えるなら、そのドーナツは我々の世界すべてを内包しており、ほぼ無限大の穴を持つことになる」となる。この偉業をたたえ、アインシュタインにはアメリカ政府からドーナツ1年分が送られた。
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 上記ネット情報は“信憑性が無い”らしいが、将来「ドーナツを作る人」を目指す坊やが大きくなるにつれ、こんなパラドックスにも興味を抱く時が来るかもしれない。

 そんな経験を積みつついろんな勉強を重ねていくうちに、坊やの夢も変貌を遂げる時が訪れるであろう。
 もしかしたら幼き日に「ドーナツを作る人」を夢見た坊やが、将来アインシュタインを超える「科学者」として世界で大活躍する事もあり得るよ! 🍩🍩🍩

東大理Ⅲ(医学部)もつまるところ“職業訓練校”?!!

2018年05月10日 | 教育・学校
 先だって、「東大医学部は『受験の時点でトップ』なだけ」 と題するネット情報を見つけた。

 私の解釈では、このネット情報が言いたかった趣旨とは 「日本の大学の中で最高の偏差値を誇る東大理Ⅲを卒業しても社会のトップに君臨出来るとは限らない」、との事なのだろう。


 ところが私の視点から一番興味深かったのは、「東大理Ⅲというのは、東大の中でも断然トップなわけじゃないですか。日本中で一番偏差値が高い“職業訓練校”です。」の箇所だ。

 私自身が過疎地の国立大学医学部出身者だ。 医学部と一言でいうと、皆さんが一番に思い浮かべるのは「医師」であろう。 ところが特に現在の医学部はその学科が多岐に及び、医学部出身者は様々な医療関連分野で活躍しているのが実態だ。
 私の場合も医学部出身といえども「医師」になるコースではなく、パラメディカル(医師以外の医療従事者)分野にて医学関連国家資格を取得するコースだった。

 過去にその経験がある故に、「医学部とは、つまるところ“職業訓練校”」との上記ネット表現が痛い程に理解出来るのだ。
 医学部に進学された方なら重々ご承知だろうが、医学部の学生とはハードスケジュールだ。 通常の授業に加え、とにかく実習が多い。
 私の場合、実験をこなさねばならない医療分野だったため、特別実験実習が多かった記憶がある。 日々大学の実験室に夜遅くまで残り、納得行くまで実験を繰り返したことが懐かしい。 
 加えて臨床現場(医療現場)に就職する場合に備え、実際に病院実習も全員必修だった。 
 それをすべてこなした上で、さらには「卒業研究」課題が課せられ、はたまた国家試験受験勉強にも合間を縫って挑まねばならない。 実に実にハードな医学部学生時代を送ったものだ。
 
 その実態とは、まさに上記ネット情報が言うところの「職業訓練校」に他ならないのであろう。
 ただそうであるからこそ、医学部卒業生の就職率は今尚高い実績を誇れるのだろう。 学生時代に厳しい“職業訓練”を受けているのだから、社会現場で「即戦力」になって当然だ。
 私自身も学生時代に厳しいまでの“職業訓練”を通過したからこそ、社会進出後も“食い扶持”に困ることなく、長い年月に渡り医学基礎分野で活躍出来たものと振り返る。


 さて、話題を「東大医学部は『受験の時点でトップ』なだけ」 と題するネット情報に移そう。
 以下に、当該ネット情報のごく一部を要約引用しよう。

 東大理Ⅲというのは、東大の中でも断然トップなわけじゃないですか。 日本中で一番偏差値が高い職業訓練校です。 東大医学部が偏差値トップである意味ってどこにあるんでしょうか。
結局、「受験の時点ではトップ」なんです。 昔なら、旧制高校に入ればエリートコースが保証されていた。しかし今は、そのようなものはありません。 ただ、ある程度そういう道も作っていいと思います。海外のように、すごく才能のある人は飛び級のような特別なコースを用意して、大学でのポストもきちんと用意するとか。 しかし、今の日本では難しいかな。 でもやっぱりそういう制度は必要だと思うし、それは今の管理者が考えなければいけないことだと思います。 (中略)
 日本の大学病院では、教員に「研究」「教育」「臨床」という三つの役割が求められます。 にもかかわらず日本の大学病院は人を減らしてるんだから、三つの役割をパーフェクトにこなすなんて無理に決まっています。 システム自体を変えないと、医師たちに頑張れといっても無理ですよ。
 「資格を求めて」だとか、「食いっぱぐれがない」だとか、そういう気持ちで医学部を目指す人も多いと思いますが、こうした厳しい現実もあることを少しでも知ったうえで、医学部に行くかどうか判断してほしい。 (中略)
 今後は日本の人口が減っていく一方で医師数は増えていきますから、何十年後には「医師余り」の時代が来ないとも限りません。 ASD分野でも研究の道をめざせばいいし、経済的な安定を求めて来るのも悪くない。 ただ現実をみると医師の仕事はかなりハードワークなので、まずはタフで頑張れる人でないと向かないとは思います。 医学部をめざすなら、やはり困難があっても頑張れる人── そういう人が、医学部に向いていると思います。
 (以上、ネット情報より一部を要約引用したもの。)

 

 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 私が引用した上記のネット情報の結論とは、「医学部を目指すには“困難があっても頑張れる人”が向いている」との事のようだが、それには我が過去の経験も踏まえて同意する。

 表題に戻そう。
 いやいや、日本の大学学部に於ける最高の「偏差値」を誇る 東大理Ⅲ(医学部)が、実は“職業訓練校”の役割を果たしている事実とは、私に言わせてもらえば素晴らしい現実ではなかろうか。
 多くの東大理Ⅲ卒業生が、世のために働かんと“労働力”を提供している事実こそが称えられるべきだろう!
 そう言えば、今年1月に我が亭主が東大病院にて手術入院した時の若き手術担当医師氏も、プロとして素晴らしい働きをされていた。 手術前日の夜遅くまで、手術に関する詳細な説明及び合意に付合ってくれたものだ。(何分、医学部出身者である私の質問事項が詳細に及んだのだが、その一つ一つに誠意を持って回答して下さったのだ。) 
 そして翌日の朝一の手術には、病室まで亭主を迎えに来て下さった。 手術終了後には、控室で待つ付添いの私に、いの一番に手術の「摘出物」を持参してくれたものだ。
 あの時の若き医師は、東大理Ⅲ(医学部)ご卒業後さほど年月が経過していない医師先生に間違いないと私は判断している。

 ここは、何も東大理Ⅲ出身だからと言って社会のトップに君臨する必要など無い、との原点に戻る事こそが肝要ではなかろうか? 
 有識者にも、今後はその観点に立って欲しいものだ。
 国内偏差値最高の大学学部で今後も充実した“職業訓練”を実施し続け、国民の生命を助け続けられるならばそれに越したことはない、と結論付けられそうにも思うのだが……

 だって、見てごらん。 この国の首相の実態を。
 本日も「加計学園」に関する首相補佐官氏の国会招致がなされているようだが、「少し記憶にあった、いや、私一人でやった事であり首相とは関係が無い……」  何度国会招致をしても、僕(しもべ)は同様の発言の繰り返しだ…

 偏差値の高い大学学部が卒業させた人材が、国家予算を食い潰す“体たらく”ぶりであるよりも…。
 東大理Ⅲが「職業訓練校」の使命を今後も全うすることこそが、世の発展を保障すると私は結論付けたい!

日本の老人は何故 “幼稚” なのか??

2018年05月08日 | 医学・医療・介護
 ここのところ本エッセイ集に於いて、老人(高齢者)関係のエッセイ公開を多発中だが。

 そんな私は、先だって見つけた上記ネット情報の表題に惹きつけられた。
 (参考だが、同趣旨の記述物を他にも数多くネット上で再発見可能だ。)


 何故この表題に私が惹きつけらるのかと言えば、実際 “幼稚”な身内高齢者2名(実母と義母だが)に日々翻弄されているせいだ。
 “幼稚”とまで言ってしまうと語弊がありまた当該高齢者2名に失礼かもしれないが、現実問題その2名の世話を日々献身的に行っている身の私にとっては「この“幼稚”野郎どもめ!」と吐き捨てたい程に、我が感情としては “幼稚” という表現がピッタリなのだ。
 そもそも高齢域に達したからと言って、何故無条件に若年者に甘えるんだ!??  その“幼稚さ”からして私には理解不能だ。
 私は高齢域に達しても、決して(娘も含め)身内の世話にならないぞ! 今後の自己管理を今まで以上に徹底し、必ずや一人で我が人生を全うし一人静かにこの世を去りたいと志し、その準備作業を既に整えているつもりだ。 
 (前回のエッセイにて記述したが、遠い将来にもしかしたら「在宅医」のお世話になるかもしれない。 とは思えど、それを我が単独経済力で叶えるにはおそらく“財力不足”であり、あくまでも夢物語なのだろうが…)
 そうだとしても、絶対的に我が娘の世話にはならないとの決意は貫かねばならない立場だ。
 娘とほぼ40歳年齢が離れている私は、130歳頃まで生き抜いて我が娘に対するサリバン業をまっとうし続けたいものだ。 半ば真面目にその目標があるからこそ、この私はいつまでも強い母親でいられるのだろう。


 ネットにて最初に見た上記表題と同様の文面をコピーしていたつもりだったのだが、どうも喪失してしまっているようだ。
 
 そこで、「日本の老人は何故幼稚なのか?」に関し、先程見つけた同様内容のネット情報から一部を要約引用して以下に紹介しよう。

 2024年には「団塊の世代」がすべて75歳以上になる。
 団塊の世代はとにかく数が多い上に同質性が高く、かつ態度がでかい。 生まれてからずっと日本社会において最大の年齢集団だったわけだから当然だが。
 子どもの頃からつねにマーケットの方が僕たち(団塊世代)のニーズを追いかけてくれた。 僕らの世代に受けたらビッグビジネスになるんだから、どうしてもわがままになる。 自分たちのやりたいことをやっていると、世間がついてきてくれる。  他の世代との協調性がなくて、自分勝手な集団がそのまま後期高齢者になるわけだからね。 
 そんな団塊の世代の一人一人が高齢者になっても自立的な生活ができるような自己訓練が必要だと思う。 若い時から、自分で料理を作ったり、家事をしたり、育児をしてきた人は、自分が高齢者になっても、なんとか自立的な生活ができるし、介護されるような場合でも介護者の気持がある程度わかると思う。
 高齢者にとって最も大切な生活能力は、他人と共生する能力だ。 理解も共感もできない他人とも何とか折り合いをつけることのできる力だ。不愉快な隣人たちと限られた資源を分かち合い、共生できる力だ。
 でも、そういう能力を開発する教育プログラムは日本の学校にはない。 ひたすら子どもたちを競争的な環境に放り込んで、相対的な優劣を競わせてきた。 その同学齢集団のラットレースで競争相手を蹴落とすことで出世するシステムの中で生きてきた人間に高い生活能力を期待することは難しい。
 60歳過ぎてから市民的成熟を遂げることは不可能。 悪いけど、大人になる人はもうとっくに大人になっている。 その年まで大人になれなかった人は正直に言って、外側は老人で中身はガキという「老いた幼児」になるしかない。
 同世代の老人たちを見ても、いろいろ苦労を経て人間に深みが出てきたなと感服することって、ほとんどない。 これから日本が直面する最大の社会的難問はこの大量の「幼児的な老人たち」がそれなりに自尊感情を維持しながら、愉快な生活を送ってもらうためにどうすればいいのかということ。
 この「幼児的な老人」の群れは日本人が戦後70年かけて作り込んできたもの、誰を恨むわけにもゆかない。
 戦後社会は「対米従属を通じての対米自立」というそれなりに明確な国家的な目標があった。そして、この国家戦略は市民ひとりひとりが成熟した個人になることによってではなく、同質性の高いマスを形成することで達成されるとみんな信じていた。 その方が確かに作業効率がいいし組織管理もし易い。消費行動も斉一的だから、大量生産・大量流通・大量消費というビジネスモデルにとっては都合がよかった。だから、国策的に同質性の異様に高い集団を作ってきた。
 こういう同質性の高い集団というのは、「この道しかない」というタイプの斉一的な行動を取ることには向いているが、前代未聞の状況が次々と到来するという危機的な状況には対応できない。  そのつどの変化に即応して、「プランA」がダメなら「プランB」という臨機応変のリスクヘッジは、多様な才能、多様な素質をもった個人が「ばらけて」いることでしか果たせない。 多様性豊かな国民を育成するという方向には戦後日本社会はほとんど関心を持たなかった。
 (以上、「日本の老人は何故幼稚なのか」に関するネット情報の一部を要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 上記に引用した文面は、今現在高齢域に達している“団塊の世代”に関して特異的に論評した内容のようだ。
 私(原左都子)は“団塊の世代”よりもう少し若い世代である。
 そうだとしても、団塊の世代とは若かりし頃より現在に至るまで大いにお付き合いがあった(ある)世代であるため、上記記述には異論・反論もあるものの興味深い内容だ。

 えっ、そうかなあ??
 若かりし時代の私にとっての“団塊の世代”の特に男性達は決して態度がデカくなく、今時の男どもよりずっと優しかったよ。 協調性も今現在よりもずっとあって、“合コン”などを企ててくれて楽しい青春時代を私は過ごしたのだけど…

 「若い時から自立して生きて来た人は、自分が高齢者になっても何とか自立的な生活ができるし、介護されるような場合になっても介護者の気持がある程度わかると思う。」との記述に関しては、私自身がその立場故にその通りだと思うよ。 
 ただ、“類は友を呼んだ”のだろう。 私が昔付き合った団塊世代の男性達のほとんどが同類だったため、今現在も私同様の人生を送っているのではないかと推し量れそうにも思うのだが…

 「戦後社会は“対米従属を通じての対米自立”というそれなりに明確な国家的な目標があった。」との記述に関しては、この私にも明瞭な記憶がある。 小学生時代の社会科授業など、まさに「米国に追いつき追い越せ!」だったものだ。
 ただ、当時のその教育が「団塊世代を“幼稚な老人”とせしめた」との“論理の破綻”とも言えそうな論理飛躍ぶりはどうしたことなのだろう?!?
 やはり、この問題、個人差が大きいとの結論に達するのではなかろうか?

 更には、「多様性豊かな国民を育成するという方向に戦後日本社会はほとんど関心を持たなかった。」との記述に関してだが。
 確かに、それらに関して日本の国家政権や日本の教育はその道を歩んだのは事実だろう。
 だが、それに抵抗し反発しつつ生き抜いて来た団塊世代も多い事だろう。
 この原左都子とて今後一生かけて“天邪鬼”を貫き、国家権力や日本の教育制度に関して異議申し立てを続行するつもりだし。


 要するに、年代に寄らず「老人」も多種多様という結論となろう。

 団塊の世代に限らず、若き時代より如何なるポリシーの下で如何なる選択をしつつ人生を積み重ねるかこそが、老後が“幼稚”な実態となるか否かの“分岐点” との結論が導けそうだ。

 標題に興味を持って引用したネット情報だったが、我が“幼稚”な2名の親族高齢者の今後の支援にとって、何らの参考にもならなかったネット文面だったなあ……

我が人生の「最終楽章」を如何に迎えるか?

2018年05月06日 | 医学・医療・介護
 (写真は、昨日義母との会食の席で撮影したもの。)


 先だっての5月3日未明、郷里の高齢者自立支援施設に暮らす実母より突然の電話で叩き起こされ、体力消耗の大打撃を食らった私は、その後も体調不良を引きずっていた。
 実母としては施設入居後初めてといえる“奇行”だったが、この先この種の事件が頻繁に発生するのであろう。 その事実を予知し受け入れねばならない立場として、責任感が強靭な私はその重圧に押しつぶされそうな感すらあった。

 熟睡出来ない日々が続き、昨日も朝から下痢状態だ。 この数日で既に体重を2kg程減らしている。

 ただ、そんな弱音は吐いていられない。
 昨日、我が家3名は義母との会食の約束をしていた。 実質“一家の長”である私こそが無事にこの会合を仕切らねばならない。 
 既に耳がほとんど聞こえない状態かつ認知力低下も極限に達したかと思しき義母の“おもてなし”を、この私が責任を持って全うせねばならない。

 幸いな事に、義母が昨日の会食、その後のショッピングの付添い及び施設までのタクシーでの送迎を心より喜んでくれたのが何よりだ。
 午前中に義母から昨日のお礼の電話(とは言っても、あちらはほぼ耳が聞こえない状態のため、こちらとしては義母の話に対して“大袈裟な演技力”で相づちを打つだけなのだが、これがまた大変な仕事であるのが実情…)が再度義母からあった。   義母曰く、「昨日は本当に楽しかった。 私は家族に恵まれていて幸せだ。 3人には感謝の思いで一杯だ。 また会いたいからよろしくね。」との趣旨の談話を、実に嬉しそうに話してくれた。 
 そう言われると、私としても「そうしましょう!」と応えたくなるものだが。 実際、その会合が近づくと“一家の長”である私は、これまた重圧なのだが…


 さて、大幅に話題を変えよう。

 2018.04.28付 朝日新聞別刷「be」、「それぞれの最終楽章」と題するコラム欄のその回の筆者は 1973年生まれとの未だ若き“在宅医” (以下、S氏としよう)であられた。

 この記述内容を読み、私は在宅である身にしてS氏からここまで“手厚い”介護を受けておられた高齢女性を羨望し、私も老後は在宅にしてこのような人生を送りたいとの希望すら抱いたのだ。

 そこで、在宅医S氏による「患者の願い 現実をお手伝い」と題する文章を以下に要約して紹介しよう。

 在宅医とは、あるときは患者さんから「医師」ではなく「友人」に近い関係を求められることがある。 今回紹介する86歳で亡くなった女性もそうだった。
 お子さんはおらずご主人とお母さんで同居していたが、毎年夏に2ヶ月間軽井沢に行くのが楽しみだったが、お母さんとご主人が相次いで亡くなった後、数年間は一人で軽井沢に行っていた。
 私(S氏)は2012年1月頃より彼女を看るようになった。 女性は「延命治療をしない」を明言していた。 15年春頃、女性に心筋梗塞と思われる症状が出た。 私(S氏)が「今年も軽井沢へ行きたいのならば検査しましょう」と説得したところ、何とか病院に行ってくれ結果として心筋梗塞の診断が下り、女性は酸素を補う機械を付けて退院した。
 夏になって、女性が軽井沢に行く時期になったが、女性は在宅酸素療法の機械を付けているため一人で行けない。 付き添う人が他にいないため、私(S氏)が同行する事にした。 現地軽井沢の病院に、在宅酸素の管理を頼んだ。
 しばらくすると、彼女から「先生、寂しいから来て」との連絡があった。 患者さんからそう言われれば断れないため、私(S氏)は軽井沢の彼女の元へ行き、食事をして一泊して帰って来た。
 軽井沢旅行の他に、もう一つ彼女の「願い」に寄り添った事がある。 それは彼女のお母さんとご主人との「墓作り」だ。 その「墓作り」を見届けた後、彼女は(あの世へ)旅立った。 
 (以下略すが、以上在宅医S氏による「それぞれの最終楽章」記載内容の一部を引用したもの。)


 原左都子の私論でまとめよう。

 直ぐ上に記載した在宅医(S氏)による文章とは、 一歩踏み違えば、「高齢女性と在宅医による切ない恋愛物語」の匂いもする程 “刺激的” と言える話題ではなかろうか???

 何だか私など、“危険性”すら抱かされる内容だ。

 いや、もっと正直に言うと、こんな老後を迎えたいとそそのかしてくれる程“美味しそうな”在宅医の記載だ。(単に我が勘違いにより言い過ぎている場合、失礼をお詫びします。)

 集団嫌いで名を馳せているこの私も、絶対的に将来「介護施設」になど入居したくないのが歴然であるのに加え、遠い将来たとえ病に倒れようと入院治療もお断りしたい。

 そうなると自宅にて病に倒れた場合、「在宅医」のお世話になるのだろうか??
 (数年前義理姉が膵臓癌で余命告知を受けた後、義母の財力のお陰で義理姉は最終期に自宅にて「在宅医」のお世話になっているため、私もある程度その現状を周知しているのだが。) 
 まずそれを実行するには、少なからずの財力を要する事実は上記義理姉の事例で多少心得ている。

 そうすると単に庶民である私の場合、人生最終楽章に於いて「在宅医」採用は所詮無理な話か?!?
 
 未だ高齢域とは言えない若き世代の原左都子にして、何を馬鹿な話題を提示しているのかとの自己反省もある。

 ただ、既に「最終楽章」に達しようとしている身内高齢者を2名抱え日々格闘している身でもある。
 その現実は、実際厳しい。
 だからこそ、遠い未来に訪れる我が「最終楽章」に密かな夢を描いても許されるのではあるまいか??

 明日は必ずや私はいつも通っている音楽スタジオにて、フルート練習をする予定だ。
 たとえ椅子が「折り畳み椅子」であろうと、フルート練習をする事を楽しみにしている。