原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

今年の「ノーベル生理学・医学賞」はメッセンジャーRNAワクチンの実用化関連研究が受賞

2023年10月08日 | 医学・医療・介護
 ここのところ、原左都子が同窓会への出席等々多忙な日々を送っている間に。


 世では「ノーベル生理学・医学賞」にて表題の通り、新型コロナウィルスに対するワクチンの実用化に貢献した発見・研究がその賞に輝いたようだ。


 2023.10.03付朝日新聞記事より、その話題に関する記載を以下に引用しよう。

 今年のノーベル生理学・医学賞がm(メッセンジャー)RNAワクチンの実用化につながる新技術を開発した独ビオンテック社のカタリン・カリコ氏、米ペンシルベニア大学のドリュー・ワイスマン氏に贈られることになった。
 2人は、人工のmRNAを体が「敵」とみなしておこす過剰な反応を回避する仕組みを開発し、実用化に結び付けた。 ワクチン開発は早くても数年かかるとされるが、世界的大流行となってから1年足らずで接種が始まったのも、この技術のたまものだ。  
 日本では、ファイザーやモデルナ社のmRNAワクチンが接種され、わつぃたちも直接その恩恵を受けた。(中略)
 研究は、視点が異なる人々の交流で新しいアイデアが生まれ育ち、盛夏の候表と相互検証で健全に進化していく。
 ひとつの国だけの人材や施設では発展に限界がある。 交流の重要度が増し、頭脳循環の流れが進み、人材獲得競争は激化している。 (中略)
 基礎研究と産業につながる応用研究のうち、日本は降車が重視される。基礎研究は、未来をひらく飛躍の芽を摘みかねず、ノーベル賞受賞者たちも苦言を呈して続けて来た。 基礎研究へのすそ野の広い支援が欠かせない。

 (以上、朝日新聞「社説」より、一部を引用したもの。)



 引き続き、同日の朝日新聞記事「『何百人の命救った』 mRNAワクチン 11カ月で実用化」より、以下に一部を引用しよう。

 新型コロナウィルスに対するワクチン実用化に貢献した発見が、今年のノーベル生理学・医学賞に輝いた。 人工的に合成したmRNAが胎内で過剰な反応を起さないようにする仕組みを見つけた研究者2名に贈られる。 (中略)
 mRNAワクチンは、たんぱく質そのものではなく、「レシピ」にあたるmRNAを体内に届け、ウィルスのたんぱく質をつくる。
 mRNAをワクチンや薬で使うという発想は30年以上前からあった。 だが、人工のmRNAは体内では異物と見なされる。 カリコ氏とワイスマン氏はある工夫を加えることで炎症を抑えることに成功。 その工夫とはmRNAに「飾り」を施すことだった。 (途中大幅略)
 今回のカリコ氏らのノーベル医学・生理学賞受賞は、異例のスピードだった。 候補となってすぐに受賞することはまれだ。 有力な候補者は何年も続けて推薦され、瀬院長な評価が重ねられていくのが通常という。
 過去に於ける、「まれ」なケースとしては、1921年に発見され、翌年に論文発表、23年にノーベル賞を受賞した「インスリンの発見」等がある。
 今回、mRNAワクチンは新たな感染症との闘いを大きく変えた。
 臨床研究の成果はその影響を見極めてから慎重に評価するとの考え方もある。 だが、ノーベル賞選考委員会は、mRNAワクチンの感染症との闘いにおける人類への貢献は、異例とも言えるスピード受賞に値すると判断したのだろう。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私事に入るが。

 この私は 2022.02に受けた3度目のコロナワクチン接種に於いて、接種日の夜中から明くる日の朝方にかけての約26時間程に渡り、思いもよらぬ“39℃超”の発熱との重い副作用に苛まれ、ずっと寝て暮らすことを強いられた。
 あれのショックにより、その後のコロナワクチン接種は拒否を貫いている。
 (参考だが、今年8月の左膝複雑骨折時に挿入された針金除去手術入院時に、病院にてコロナ抗体検査を受けている。 その際の検査結果は「陰性」だった。)
 これを医学関係者である私が考察するに、あれ程までに3度目のワクチン接種後高熱に苦しんだ割には、一旦我が体内で作られたと思われる抗体は遠い昔に体内から姿を消していると結論づけられよう。 
 まあ、一時的にワクチン接種の効果はあったのだろうが。 
 要するにワクチン接種(特にコロナワクチンの場合は)による感染防御効果とは人が考えているほどに長続きせず、比較的短期間で効果が無くなるとの結論となろう。


 だからどう、と言いたいわけではないが。

 とにかく、今年のノーベル生理学・医学賞には。
 そのコロナワクチンの実用化に貢献した研究者たちが、受賞する結果となっている。😷 


“Z世代の孫” がいない私

2023年10月06日 | 人間関係
 本日のエッセイは、2023.09.30付朝日新聞「書評」ページより 杉本昌隆氏著「師匠はつらいよ 藤井聡汰のいる日常」に対する、書評家・三宅香帆氏による書評「『理想の上司』が見せる包容力」から少しだけ引用、参照させていただく。


 以下に、それを引用しよう。

 現在の若者のことを、Z世代と呼ぶことがある。 案外この言葉が世間で定着し、広く使われているのは「Z世代の若者とどう接していいかわからない」という悩みが普遍的なものなのだからではないだろうか。 そんな悩みをもった大人たちに手渡したいのが、本書である。 本書はZ世代の筆頭である藤井聡太さんを弟子に持った、通称「杉本師匠」の日常エッセイである。
 2002年生まれの若き天才藤井さんは、瞬く間に結果を残し、将棋に普段触れない人まで彼の人柄を知ることになった。

 (以下略すが、以上朝日新聞「書評」ページよりごく一部を引用したもの。)



 話題を変えて、原左都子の私事に入ろう。

 前回、前々回のエッセイにて、先週私が郷里高校東京支部の同窓会に出席した話題に触れた。
 その時の出席者のほとんどが男性だった事を記したが。

 その際に多少驚いたのは、それら男どもが同窓会の席で“孫自慢”を始めたことだ。😮  一人がスマホのそれを提示し始めると、男どもの皆が皆スマホを取り出して孫写真を見せ合い始めるではないか!
 そういう行動とは女の特権かとの思いが頭の片隅にあった私にとって、同級生の男どものその行動に実に意外性があったものだ。 ただ、そんな同級生男性どもが何だか可愛くて、私は積極的にお孫さんたちの写真を拝見しては「可愛い!」を連発しましたよ!!😁 
 確かに我が年代の同窓生と言えば おそらく孫が可愛い盛りなのであろうと、その時に初めて気付かされるほどに 私は孫とは縁のない生活を送っている。

 いろいろな意味で、そもそも孫が欲しいなる思想が全く出ない環境下に私はあったと言えよう。
 私自身が晩婚の道程を歩んできている。 それもそれを望んであえてそうしてきた人間だ。 とにかく自分自身の夢の実現願望が強い人種であり、それを確実に実践に移してきた納得いく半生を送っている。
 子どもすらいてもいなくてもどちらでもよいとの思いが、我々晩婚夫婦の共通項でもあった。「出来たら産む、出来なければ要らない。ただし二人とも既に高齢域のため 産むなら早めがいい。」 そんな話し合いを結婚直前期に現在の亭主としていた頃には、ラッキーにも既に我がお腹に娘の生命が宿っていた。
 参考だが、結婚式後5カ月目に誕生した我が一人娘は今年30歳を迎える。(未だに独身を貫いている娘にも結婚願望が無い。) 親とすれば、娘の自由を尊重するのが娘の幸せと捉えている。


 話題を先週の同窓会に戻そう。
 
 いやいや、男どもも高齢域に達したら孫が可愛いんだ!! と実感させられた同窓会でもあった。
 この同窓会には 女子が私と幹事女性の2名しか出席していなかったため、高齢域に達した女子が孫に対して如何なる行動を採るのかは計り知れないが。

 

 「孫」ねえ。
 まさか、今後我が娘が子供を産むとも思えない現状だが。

 今現在の私の正直な思いを述べると。
 もしも我が娘が将来的に孫を産んだとして。 それを私に預けて「育ててね!」と言われても、全く自信が無い私だ…

 高齢出産だった我が娘の育児にも超難義した思い出しかない。 
 とにかく、緊急帝王切開にて生まれ出た娘の出産当初のあの体調絶不良の辛さを未だに思い起してしまう…
 腹部切開されてズタズタの私だったものだ。 そんな身体から豊かな母乳が出る訳もなく、わずか2か月で人工乳に変えたのがむしろ我が身としては助かった思いだった。


 そんな娘も、その後はすくすく育ってくれた。

 “Z世代の孫”など、二の次、三の次でいいから。
 娘の貴方自身の未来を確実に見つめて欲しい、と貴方を産んだ直後から本気で思っている母の私であることを、今更ながら娘に伝えたい。 
 

普段さほど親しくない相手との会合では、会話の力量が問われるなあ。

2023年10月03日 | 人間関係
 今回の表題は、10月1日に参加した我が高校時代の同窓会の感想を書いたものだが。

 それでも、出席して良かったと私は高評価している。

 と言うのも、今現在の世の中はネットが人との交流の主たる手段となり過ぎていて、生身の人間を相手に長時間話し合える機会など同窓会以外ほぼ無いと言えるのではなかろうか??



 話題を大きく変えるが。

 2023.09.30付朝日新聞「悩みのるつぼ」相談内容は、30代女性による「SNSを見て苛立つのをやめたい」だった。

 ほんの少しだけ、以下に相談内容を紹介すると。

 15年間嫌い続けている女性がいる。 彼女のSNSをストーキングしては苛立つということをやめられない。(途中大幅略)
 彼女や彼女の知人が投稿する彼女の写真や動向を閲覧しては苛立つ。 現在では、結婚して子ども生まれているのに、なぜ私はわざわざ彼女の一挙一動を追って苛立つことをやめられないのだろうか。 やめたいと思っているし、無駄な行為であると理解はしている。

 (以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」より相談内容の一部を引用したもの。)


 一旦、原左都子の感想だが。
 
 ならば、すぐにやめましょうよ。
 それしかないのだが…
 付け加えると、現実世界の同窓会にでも出席してカッコイイ男子の隣にでも座ってお話してきただけでも、貴方の心は少しは解放されそうにも思うのだけど。
 どうして15年なる長い年月を通して、嫌いな女性のSNSのストーキングなどをあえて続けるのか!?!
 子どもも生まれたならば尚更、そんな実りの無いストーキングをしている暇など無いと思うけど。 
 かなり理解に苦しむ相談内容だ。


 と言いつつ、この原左都子も「原左都子エッセイ集」初期頃から4,5年間は、読者対応に難儀した時代であったことを思い起す。
 とにかく、エッセイ書いて公開すると、多い時で10本程のコメント(そのほとんどが長文コメント)がコメント欄に押し寄せて来た。
 その1本1本に丁寧な返答コメントを書くのに多大な時間を要したものだが。
 いえいえ、多くのコメントは 我がエッセイファンの方々から頂戴する素晴らしいコメント群だったのだが。
 中には誹謗中傷じみたコメントも存在して、その対応に難儀しつつも私は律儀にも返答コメントを必ず書いてきた。

 無理は続かないもので、(というよりも、私と言う人間は今後何に重点を置いて生きるべきか? なる課題と向き合う機会となったとも言えよう)、私のコメント欄閉鎖判断は早かった。
 そして現在尚、「原左都子エッセイ集」のコメント欄は閉鎖した状態のままだ。 今後もコメント欄を再開する予定は一切無い。


 今では、それが大正解と結論付けている。

 何と言うのか、一番の効用は我が自由時間が増えたとのことかもしれない。
(それまでは、実に長時間をエッセイ宛のコメント返答に費やしていたものだ…)


 
 最後に表題のテーマに戻そう。

 昨日出席した高校時代の同窓会は、実に充実していて楽しかった。 
 それも偶然お隣りになった(元パイロットの)K氏のご力量の賜物であろう。

 今後はこの原左都子こそが、その役割を果たしたいものだが。
 この原左都子は その力量に多少(あくまでも多少の範囲だが)に欠落していることを実感させられたりもする。 (いえいえ、高校教諭経験がある私の場合、生徒との会話、要するに“聞き役”には秀でていましたよ!)

 今後の対人関係に備えて、その能力(さほど親しくない方との長時間の“対等な会話能力”)を充実させたい気がする!!
 

郷里高校(元女学校)の同窓会、行ってみれば出席者はなんと男性多数!!

2023年10月02日 | 人間関係
 (冒頭写真は、昨日私が訪れた郷里の我が出身高校東京支部同窓会に出席した同級生の面々。 御覧の通り 男性がほとんどだ。 前列中央、黄色カーディガンが原左都子。)


 昨日 予定通り、我が郷里卒業高校東京支部同級生同窓会へ行って来ました。

 会場へ到着してみて驚いたのは、表題通り出席者の多数が男性だったことだ。(これに関して説明すると、私が入学した時には既に共学になっていたのだが、当時は全体的に男子生徒が3~4割程と少なかったのが特徴だった。)

 会場の外で幹事女性が私を待っていて同窓会会場まで連れて行って下さって、驚いた!! 
 口には出さないが同窓会参加者の面々を一見して、(誰?? この年寄り男ども達は?!?!)と閉口したのが正直なところだった。😵 
 時間の経過とは人の外見をこれ程までに変えるものなのか!!?!、と、あくまでも自分を棚に上げて実感させられた。😝 
 これもしも幹事女性が私を外で待ってくれていなくて、私一人で会場へは行ったならば。 おそらく(場所を間違えた!!)と判断して、外へ飛び出たことだろう。


 とにかく同窓会場へ私が最後に到着して、同窓会は開始した。
 ちなみに、私はこの方のお隣りに着席した。

         
 Kさん、申し訳ありません。 お顔を隠すべきですが、我がパソコンの新しい写真システムに不慣れでその作業方法が未だ分からず、やむを得ず公開させていただきました。 (もし この写真をKさんがご覧になって「削除」希望でしたらお伝え下さい。即刻削除致します。)
 この座席が大正解で、私はKさんのお陰で楽しい同窓会の時間を過ごすことが叶った。
 このKさん、元大手航空会社のパイロットであられる。
 にもかかわらずご自身のことはさておいて、私の現役時代の職業をさかんに聞いて下さるので それに応えて、「地元国立大学医学部パラメディカル分野にて学業に励み、その職種で後々頑張った」旨を告げると。 予想以上に驚かれると同時に、その話題で花が咲いたものだ。
 
 Kさん含めて他の出席者との会話に於いても必ず「孫」の話題が出て、スマホで撮影したお孫さんの写真を見せて下さったりもする。
 この年齢にしてそれが至って通常であるなあ、と改めて思い返しつつも。 私の場合は晩婚でもあったし、「孫」に対するこだわりも実際無い事実を正直に伝えたりもした。


 
 私は基本的には、同窓会というものを好んでいない。
 特に若い頃は、それへの出席を拒否し続けていた記憶があるが。

 高年齢になると共に、どういう訳か「出席してみようかな??」と思ったりもする自身の心理を探ってみるに。

 これ、単に自身の “若さ自慢” との結論に辿り着くのかもしれないし。
 あるいは、“全然後ろめたい人生を送ってもいないし、むしろ胸を張って出席して“自己自慢”を展開して許される年齢に達したのではないか??” なる、身勝手な思想が我が心理の背景にあるような気もする。

 それが証拠に、昨日の同窓会においてもその辺の過去歴を尋ねて下さる同窓生に巡り会え、その一端を語れたことに満足している私でもある。😱 😷 


 そういうふうに考察してみると。

 そんな自己満足目的で同窓会に出席しても、許されるのか??? とも思えてきたりもする…