◎日の本は、馬鹿にひょっとこ、おかっぴき(今田新太郎)
本日からしばらく、田村真作の『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)という本を紹介してみたい。
著者の田村真作については詳しくない。この本の最終ページによれば、著者は、元朝日新聞政治部記者で、「東久邇宮内閣参与」だったことがあるという。この本の信頼性についても、実はよくわからない。しかし、明らかに、この本には、他書には載っていないことが書かれている。
本日は、まず、「Ⅱ」の「10 東條暗殺事件」を紹介してみたい。
10 東 條 暗 殺 事 件
私は上海で久し振りに今田新太郎少将に会つた。彼は私の顔を見るやいなや
「君達はこんなと仁ろで何をぐずぐずしているのだ。日本を救う道は元兇東條を倒す以外にない。」
彼はひどく激怒していた。石原〔莞爾〕系として東條〔英機〕ににらまれ中夬を追われ、後に師団参謀長として山西の山々を転々として、戦争のきらいな参謀長として不思議がられていたが、太平洋戦争の後期にニューギニアに追いやられることになり、上海に立ち寄つていた。
「日の本は、馬鹿にひよつとこ、おかつぴき」
墨黒々とこんな歌を私に書残して彼は南方に去つた。
【一行アキ】
日本の敗戦がありありと国民の目にも映つて東條が総理大臣をやめねばならぬ情勢になつていた頃、東條暗殺事件というのが発覚した。この事件には当時参謀本部に居られた三笠宮〔崇仁親王〕にも関係あるらしく、津野田〔知重〕という若い少佐参謀、学習院の柔道師範牛島辰熊〈ウシジマ・タツクマ〉、上海にいた浅原健三の三人が逮捕された。
津野田は山西時代から今田少将と師弟の関係があり、南京総軍司令部では辻〔政信〕大佐の下で勤務していた。浅原、牛島の両氏は古くから今田少将と親交があつた。
実はこの当時、私は津野田少佐と渋谷の彼の自宅で午前二時まで話し合つた。中国との和平問題についての具体的な方法であつたが、私と彼との間には意見のくい違いがあつた。
東條内閣はつぶれたが、東條の子分の四方〔諒二〕はまだ東京憲兵隊長として残つていた。彼やら佐藤〔賢了〕軍務局長は、第二次東條内閣を夢見てお手のものの機密費をばらまいて暗躍していた。四方はこの東條暗殺事件の発覚に、これで東條に御奉公が出来るとよろこんだ。第二の浅原事件がでつちあげられた。
石原さんは、東條暗殺事件の参考人として東京の軍法会議に引つぱり出された。もちろん石原さんには何の関係もないことだつたが、これには、石原さんは軍の行動に反対する反軍思想だということが加味されていた。
石原さんは、下駄ばきのまゝで鶴岡からのこのこと東京の軍法会議の法廷に出かけて来た。番人がうさんくさい奴だと思つて、とがめたらそれが当の石原さんだつた。
石原さんはこの軍法会議で、「軍閥」の定義をはつきりつけた。
「石原は軍を常に軍閥とよんで誹謗している」という点に対して、石原さんは、
「軍閥とは、軍人に賜わりたる勅諭に反し、政治に干与する軍人のことである。」
と答えている。
今でこそ、誰もが「軍閥」と平気でいつて一つの流行語になつてしまつているが、東條の憲兵政治の最中〈サナカ〉に、公然と「東條軍閥」といつていたのは、石原さんぐらいなものだろう。東條の石原さんに対する怨恨〈エンコン〉は、私情であつた。石原さんは、個人的に東條を何とも思つていなかつた。
【一行アキ】
石原さんは、この軍法会議に意見書を提出しているが、その中で 「日本は、このまゝで行けば、太平洋戦争に敗けるだろう。アメリカは、日本に対して苛酷な要求はしないだろう。」
という意味のことを述べている。
当時は、日本が敗けたら、男はみな殺しになる――といわれていた時であつた。