◎将兵は涙を吞み激情に趨ることなく……(東久邇陸相宮)
朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)から、有竹修二の「新日本への発足」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
鈴木内閣挂冠、東久邇宮内閣成立
畏き〈カシコキ〉大詔を拝するとともに、鈴木〔貫太郎〕首相は閣員の辞表をとりまとめ、闕下〈ケッカ〉に骸骨を乞ひ奉つた。辞職の理由は、大事を閣議において決すること能はず、しばしば、聖断を仰ぎ奉つたため、責〈セメ〉を引くといふにあつた。けだし、当然の進退といふべきであらう。鈴木内閣が本年〔一九四五〕四月に成立したとき、この内閣が最後の内閣であるかどうか、といふことが問題になつた。その意味は、戦争の結果をつける内閣かどうかといふことであつた。
その意味からいつて、鈴木内閣は、最終内閣だつたともいへる。たゞ、慾をいへば、停戦から講和に至るすべてを片づけてから退いて貰ひたかつた。しかし、首相の言の如く、一再ならず聖断を仰いだこと、そして、阿南〔惟幾〕陸相の自刃を見ては、鈴木内閣に、それを望むのは無理であつた。
後継内閣の首班として、東久邇宮〔稔彦王〕殿下に大命が降下した。皇族の総理は、内閣制度創始以来、はじめてのことである。この異例のことは、いよいよ事態の重大を示すものである。さらに、この度の大命降下に際し、米内々閣総辞職のとき以来の慣習となつてゐた重臣会議を開くことなく、後継内閣の人選が決せられたことは、特に記録すべきである。
御聡明にして、極めて果断、度量大いなる東久邇宮〈ヒガシクニノミヤ〉殿下こそは、邦家、非常の秋〈トキ〉にあたつての宰相として、他に比類なき最適任者であつた。すなはちポツダム宣言履行といふ難事を国内の相剋〈ソウコク〉なくして、やりのける内閣は、この内閣以外にあり得なかつた。この内閣の選定に、重臣会議は行はれずとすると、そも、重臣中何人〈ナンピト〉の献替〈ケンタイ〉によるものか、いな、それを詮索するよりも、鈴木内閣挂冠〈ケイカン〉後の情勢から推して、それ以外にゆく途はあり得ないと断ずるのほかはない。
東久邇宮殿下には、海相米内〔光政〕大将に強ひて留任を求められ、自ら陸相を兼ね、近衛文麿公を国務相として入閣せしめ、十七日組閣を完了遊ばされた。
この日、大元帥陛下には、特に陸海軍人に勅語を賜ひ
汝等軍人克ク朕カ意ヲ体シ鞏固ナル団結ヲ堅持シ出処進止ヲ厳明ニシ千辛万苦ニ克チ忍ヒ難キヲ忍ヒテ国家永年ノ礎ヲ遺サムコトヲ期セヨ
と宣ひ〈ノタマイ〉、東久邇陸相宮〈ヒガシクニリクショウノミヤ〉殿下は、陸軍軍人に訓示を発せられ
全軍、将兵は涙を吞み激情に趨る〈ハシル〉ことなく又冷厳なる事実に目を蔽ふことなく、冷静真摯〈シンシ〉一糸乱れざる統制の下
軍秩を維持し粛然たる軍容を正し承詔必謹の一途に撤すへし
と諭し給うた。
文中に、東久邇陸相宮とあるが、「ひがしくにりくしょうのみや」と読む。東久邇首相宮と言った場合の読みは、「ひがしくにしゅしょうのみや」である。なお、東久邇内閣の成立は、一九四五年(昭和二〇)八月一七日で、東久邇宮が陸軍大臣を兼任していたのは、同月二三日までであった(後任は、下村定)。