◎場合によっては僕が重慶に使してもよい(緒方竹虎)
田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その九回目で、「Ⅱ」の「17 最高戦争指導会議」を紹介する。
17 最 高 戦 争 指 導 会 議
繆〔斌〕さんは〔一九四五年〕三月十六日に、単身で上海を出発して同日午後羽田に着いた。私はおくれて、やつと海軍機の便を得て、福岡まで飛行機で、それから汽車で上京した。大阪大空襲の後で、車窓から見る大阪は、まだブスブスと燃えていた。緒方〔竹虎〕さんは、私の東京到着がおそいので、憲兵隊に逮捕されたものと心配して、朝日新聞の支局を通じて、私を探してくれていた。繆さんは緒方さんの世話で 麻布広尾の迎賓館の一室にいた。
繆さんは、東京に着くとすぐ緒方さんと会つた。
「私は上海で過日、山県〔初男〕さんに会つた時、小磯〔国昭〕総理は真剣に中日全面和平について考慮していると聞かされた。御承知の通り、戦局は日に日に進展しているので、至急小磯総理に会い、かねて懸案の中日全面和平問題解決を促進したいと思つた。渡日の方法について山県さんと相談した。山県さんがこの私の要望を日本に帰つて、小磯総理に伝えたものと思うが、南京総軍はついに私に飛行機の座席を与えることを許可した。しかし私が同行を予定した無電の技師には座席が許可されず、止むなく私一人上京せねばならなかつた。無電の技師を連れて来たかつたのは、日本政府との話合い如何では、東京から直接、重慶と無電交信し、東京・重慶の直接折衝に移したかつたからである。もとより南京総軍は私を信用していないし、私はより以上に南京総軍の軍人を信用していないので、私の要求は冷淡に総軍から一蹴された。
渡日については、蒋〔介石〕委員長の諒解を得ている。中日全面和平の実現については、日本政府との折衝の期限について、蒋委員長から内命を受けている。中日全面和平はもとより、日米和平の前提として考えている。これによって中日両国が戦争の徹底的荒廃から救われ、東亜の保全を維持し得るのみならず、世界の平和克復に資することが出来る。小磯総理と話を進めたい。」
【一行アキ】
繆さんが戦局の見透しで協調した点は
一、米国の次期作戦は必ずや琉球への上陸作戦である。日本を孤立させ艦砲射撃と空襲で、日本本土を徹底的に叩いた後で最後に日本本土に上陸作戦を敢行するだろう。
一、米国は中国大陸には作戦しない。
一、ソ連は、米国の対日攻撃が決定的局面を展開した場合、必ず武力をもつて満洲に進入して来る。
繆さんは重慶側の意見として
一、日本はまず南京政府を解消して日本側の誠意を示すこと。
一、中日双方より代表者を出して、停戦撤兵を協議し、それに基づいて日本軍は逐次撤兵すること。
を伝えている。
【一行アキ】
政府内部における繆斌工作のいきさつについては、直接この工作の中心として努力した緒方国務相の談に聞くのが一番明白である。
【一行アキ】
「小磯総理はその位置上、すぐ繆斌と会見することを控えたいというので、僕が代つて二日にわたり種々繆斌の意向を叩いて見たが、彼は蒋主席よりの電文写しその他の証拠品を所持しており、彼の有する案についても、重慶の意向が明瞭にされていた。勿論、日本としても対中国政策の百八十度の転換であるから、繆斌の提案をそのまゝ吞込むことは内外の事情で困難であるが、所謂重慶工作を開く基礎には十分であると考えた。
そこで僕は一切を小磯総理に応答し、場合によつては僕自身重慶に使してもよいというと、小磯総理は非常に乗気になり、最高戦争指導会議を開くから、一つ原案を用意し、且つ君も会議に出てくれとのことだつたので、繆斌の提案たる南京政府解消、停戦撤兵、引継機関としての留守府開設案とともに、〝専使を派遣し、蒋主席の真意を確むべき〟の意見を付して原案を用意した。然るところ、最高戦争指導会議においては、重光〔葵〕外相先ず、南京大使館清水書記官の情報にもとづいて、真向〈マッコウ〉より反対し、(繆斌の経歴を述べて信用すべからずとするもの、周◆なる名を用いてわざと繆斌と云わず)、ついで杉山〔元〕陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、及川〔古志郎〕軍令部長、米内〔光政〕海相も皆反対又は賛否を留保し、会議は極めて白けた空気のなかに散会した。
要するに、最初より事態を真面目に検討する意思がないのである。
僕は事の余りに不可解なるを見て、最初から熱心にこの工作を支持された東久邇宮〔稔彦王〕殿下に、以上の経過を申し上げ、一方米内海相にも助力を求めた。殿下は、杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招じ、熱心に事態の収拾を勧説されたが、陸相、総長共に一向にえ切らなかつた。
米内海相には僕自身、今や戦争のみを以てしては局面の打開は殆ど不可能である。万一敗戦の場合、顧みて打つべき手が残されていてはお上に対し申し訳ない次第ではないかと、切に海相に共鳴を求めたところ、海相は、君〔緒方〕の誠意は認められるが、事こゝに至つては内閣は最悪の場合に陥る外なかろうとのことであつた。
こゝにおいて小磯総理は聖断を仰ぐべく参内したが聴かれず、こえて四月三日、陛下より改めて重光外相、杉山陸相、米内海相に対し御下問があり、三相ひとしく反対意見を奉答したためこゝに小磯内閣の瓦解となつた。
繆斌と重慶と如何なる関係にあつたかは今以て明白でない。が、繆斌自身は、はじめより自分の権限は三月三十一日を以て期限とすること、自分は直接重慶を代表するものにあらず、重慶の代表者は目下上海にあつて総ての指示を与えているのだと卒直に語つていた。
しかしいずれにせよ、彼が重慶との連絡を確保していたことは事実で、東久邇宮殿下は、既に万一の場合を予想され、この路線を通じ、対米交渉にまで発展せんことを熱心に期待され、僕も同様の考えでいた。
繆斌も亦、米国の同意又は参加なき直接交渉の不可能なることは暗に語つており、沖縄失陥とともにソ連は必ず満洲に進出するという見透しで極度に焦つていた。
勿論この工作完成には当時の国内情勢から見て非常の困難が予想されたが、一種のとらわれた感情から、全然着手されなかつたことは遺憾であつた。」
緒方竹虎の発言の中にある「周◆」は人名。◆は、サンズイに杉という漢字である。
同じ緒方の発言の中に、「重慶の代表者は目下上海にあつて」とある。これは、繆斌に発言を引いている部分だが、この上海にある「重慶の代表者」というのは、たぶん、「藍衣社のK」のことであろう。