礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

雲ひとつない東京の秋空をB29が一機飛んだ

2020-07-21 00:01:40 | コラムと名言

◎雲ひとつない東京の秋空をB29が一機飛んだ

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その五回目で、「Ⅱ」の「14 最後に残された道」を紹介したい。

   14 最後に残された道

 小磯内閣の二宮治重〈ハルシゲ〉中将を中心にして、軍閥工作が開始されていた。東條と大げんかして陸軍をやめた田中久大佐も参加していた。田中大佐の意見は、この際、東久邇宮〔稔彦王〕の出馬を仰いで、総理大臣とし、小磯〔国昭〕を副総理にするより途〈ミチ〉はないとのことであつた。
 田中大佐の懇願で、石原〔莞爾〕さんも出て来た。小磯内閣は軍閥には評判が悪いが、民間にはなかなか人気がある――との石原さんの評だつた。
 アメリカは既にフィリッピに迫つている。……東久邇宮の奮起をうながす以外にない。東久邇宮と石原さんとの会見を計画した。石原さんは、何度お話し申し上げても同じことだよ――としぶつていたが、小雨の降る中を無理に歩いてもらつた。
 東久邇宮と石原さんとの会談は、一時間余に及んだ。会談を終えた石原さんは黙つて何もいわなかつた。その日、宮家では、在京の各宮家に電話連絡があり,皇族方が集まられたようであつた。
 それから数日して、特に東久邇宮から私にお呼び出しがあつた。お伺いすると、宮様は改まつた調子で
 「このことを石原中将に伝えてほしい。私が小磯を呼びつけて、あなたは総理大臣をおやめなさい、私が代りに総理大臣になつてやるとは、私はどうしても言えない。東久邇はおく病で勇気がありません――そう石原中将に伝えてもらいたい。」
とのことであつた。
 フィリッピンは既に危い〈アヤウイ〉。……この際、東久邇宮を総理にし、小磯を副総理にした強力な内閣によつて、軍の横暴を抑えなければ、このまゝだとせつかくの小磯内閣の努力が無駄になる――強硬に主張したが、緒方〔竹虎〕さんは、そうしても結局は同じ結果になるよ――といつて、とりあげなかつた。
【一行アキ】
 〔一九四四年〕十一月一日、雲一つない東京の秋空を、B29が一機、白い飛行雲を長く後に引きながら飛んだ。はじめて東京の空に見るB29の姿であつた。
 私は緒方さんの紹介で、総理官邸の日本間で和服にくつろいだ小磯総理と面談した。私は、
 汪政権は有名無実より、今では有害になつていること。中国の国民党と共産党とはもともと根本的に相容れない性格であること。――を話した。そして、
 先ずこの際、南京政府を解消するだけでも活路は打開されるだろう――と意見をのべた。小磯総理は
 「あなたの意見は、畑〔俊六〕教育総監(前支那派遣軍総同令官)の意見とよく似ている。これを読んで見たまえ。」
といつて畑教育総監の意見書を出して来て私に見せた。
【一行アキ】
 汪兆銘なき後の南京政府を解消して、対中国との関係を一新しようとする緖方さんや小磯総理の苦心は、外相重光〔葵〕と陸相杉山〔元〕の猛烈な反対に直面した。その後に開かれた最高戦争指導会議でも、外相重光と陸相杉山は、南京政府の解消は道義上許されない――と、体面論を盾〈タテ〉にとって猛烈に反対した。
 中国に日本の傀儡政権を存置することこそ、中国の民衆に対して日本は道義上甚だ相済まなかつたのではないだろうか。
 南京政府と腐れ縁の出来た重光と杉山が唱える体面とは、日本軍閥とその手先きに堕した外交官僚の体面論であつた。
【一行アキ】
 十一月十日、汪兆銘は名古屋で逝去した。それなのに、何の手も打たれてない。これでよいのだろうか――十一月十五日、私は空しく東京を去つた。
 東久邇宮の激励のお言葉と、緒方さんの熱意が、私の慰めだつた。緒方鍺方さんは、ともすれば泣き出す私を、「センチになるな」と叱つていた。緒方さんは苦難に耐える勇気を持つていた。
【一行アキ】
 私は東京から上海のフランス租界にある私の巣に帰ると、さつそく身辺の整理をした。いつ憲兵隊に捕えられるかわからない身の上である。よし銃殺で強迫されても、日本民族の誇りにかけて、Kとの信義は守らなければならない。私には何の庇護も援助もない。たゞ死によつて抗することだけが、残されている私の権利である。 
 終戦後、某が私にこんなことを打ち開けた。
 「実はね、あんたと繆斌をじやまになるから殺してくれと兵隊からたのまれていたんだよ。しかし、知つている仲だから、それだけはかんべんしてくれと断つたがね。」
 私はこの話を聞いてゾッとした。私と繆さんを暗殺するように頼んだ軍人の名もわかつている。これは軍閥が平気で使う最後の手だ。
【一行アキ】
 十一月末からいよいよ、アメリカの日本本土戦略爆撃が開始された。私は短波ラジオにかじりついている――デリーから、シドニーから、ハワイから、サンフラシシスコから、重慶から、はつきりと日本語の放送までが入つて来る。力弱く聞えていたベルリンからの日本語放送は、とだえてしまつた。東京からの海外向けの短波放送は、電波の妨害で聞きとれない。たゞ放送の後の君が代だけが、とぎれとぎれに聞える。この放送戦を聞いただけで、戦局の様相が判断された。
【一行アキ】
 十二月になつて、繆さんのところから連絡があつた。小磯総理の代理と称して山県初男という人が東京から来た。私と会いたいというがどんな人か調べてくれ――とのことである。
 山県という人は大佐でやめた退役軍人で、中国の大冶〈ダイヤ〉鉄山にいたことのある古い支那通である。小磯総理の友人であろう。彼は繆さんのところを度々訪問している。
 山県氏に会つた。もののわかつた老人である。自分は小磯総理の内命で、重慶と関係のある人をいろいろ調査したが、矢張り繆先生より他にない――との話である。私も今までのいきさつを話して協力を約した。

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