礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

批判のないところに進歩はない(石原莞爾)

2020-07-18 02:55:16 | コラムと名言

◎批判のないところに進歩はない(石原莞爾)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その二回目で、「Ⅱ」の「11 動揺する東京」を紹介してみたい。

   11 動 揺 す る 東 京 

 石の上にも三年ということがある――私が中国で和平工作に専念してから、五年半になつた……石原〔莞爾〕さんから――この頃は自分の手紙は全部開封されて不愉快であると、前害きして、私の身をきづかつて下さる愛情にあふれた手紙が来た。
 私の仕事もまた緒方〔竹虎〕さんの信頼に対して、どうやら答えられるところまで来た。――私はこう考えると一刻もじつとしていられなくなつた。私は海軍関係の飛行機の席をたのんで昭和十九年〔一九四四〕七月東京に飛んだ。
【一行アキ】
 昭和十九年七月十一日にサイパンが占領された。戦況はもはや決定的である。七月十八日東條〔英機〕内閣がとうとうつぶれて小磯〔国昭〕内閣が成立した。ぱつとしない顔ぶれである。たゞ朝日新聞主筆の緒方竹虎氏の国務大臣兼情報局総裁が光つていた。
 国民は本当のことを知りたがつている。国民をだますな、本当のことを国民に知らせよ――これは東條の言論弾圧に抗した石原さんの叫びであつた。新聞記者の私が石原さんに敬服した最初は、軍人である石原さんが言論の自由を主張し、批判のないところに進歩はない――と常に言つていたことであつた。石原さんは連隊長の時代に連隊新聞を兵士に発行させて将校の批判を許していた。営内には大きな壁新聞をつくつていた。
 緒方さんが情報局総裁になれば、この石原さんの主張が実現されると思つた。本当のことを国民に知らせ、国民の輿論〈ヨロン〉に訴えることだ。国民の輿論の支持を得た政治が一番強い。軍閥の専横も国民の輿論の前には屈せざるを得なくなる。
 緖方さんは苦闘していた。国民に本当のことを知らせようにも、戦況はすべて統帥部が握つていた。海軍側はどうやら協力を示したが、陸軍側は戦況の正直な発表に頑強に反対した。緖方さんはこの陸軍の反抗と必死になつて抗争していた。軍閥は国民の目と耳をおゝつて、勝つた勝つたで最後まで国民を引きずつて行く肚〈ハラ〉であつた。 
 東條は退陣したが、軍閥は依然として深く根を張つていた――陸軍の杉山〔元〕、参謀総長の梅津〔美治郎〕――第一次近衛内閣の当初に日華事変を起しこれを拡大した軍閥のコンビはそのまゝ残つていた。陸軍の据膳〈スエゼン〉である外相の重光葵〈シゲミツ・マモル〉と蔵相の石渡荘太郎〈イシワタ・ソウタロウ〉とは、中国の侵略で軍閥となれ合つた官僚であつた。
 二箇月でつぶれる短命内閣といわれた小磯内閣は、東條の残党の妨害と陸軍の全面的なサボタージュに当面して敗戦の断末魔にもがいていた。戦況は刻々と不利を告げた。日華事変の発生以来、日本の政治に内蔵されたあらゆる矛盾と腐敗がこの小磯内閣においてはつきりと露出された。「繆斌〈ミョウヒン〉事件」といわれる和平工作もその一つであつた。そこには中国侵略者の姿がありありと浮び上つて来る――。
 鈴木〔貫太郎〕内閣は、老骨の首相が意を決して、御前会議に天皇の決裁を仰いだにとゞまる。東久邇宮〔稔彦王〕内閣は、マッカーサー元帥の日本進駐を迎える役割を果たしたにすぎない。日本敗戦史の興味は、日本敗戦の最後のどたん場で苦悩したこの小磯内閣にあるだろう。
【一行アキ】
 私は緒方さんに会つて、上海の出来ごとを残らず報告した。そして、
 「重慶工作といわれているものは、いろいろあるけれど、それは重慶の誰かのところか、または和平地区に来ている誰かとの話合いで、蒋介石のところには、直接とゞかない工作である。私もそうしたものなら、今までにいくらでもあつた。
 上海の路線は、そんなものではなく、じかに、蒋介石に結びついていることに特長がある。この線は、蒋介石の直属の生きた現役の線であり、もちろん敵性である。それが上海の繆〔斌〕さんのところまで延びて来ている。上海の繆さんのところが、接合点になつている。こゝで、日本の路線と結びつけられる。
 私個人の力としては、これが限度である。これ以上のことは、緒方さんの方で考えていたゞきたい。この路線は、現役であるだけに、日本軍との関係を極度にきらつている。また現在既に、日本憲兵のために危険にさらされている。」
と意見をのべた。また、
 「繆さんは、中国の政治家としても、一流の人物である。彼の国際情勢の判断には、私はいつも敬服させられている。繆さんを一度日本によんで、路線のことも研究され、また彼の意見も聞かれては、どうだろうか。」
と進言した。
 緒方さんは、昭和十八年〔一九四三〕夏に、南方視察の途中で上海に立ちよつた時に繆さんと相当つきこんだ話をしたこともあり、彼の気心も知つていた。緖方さんは繆さんを東京によぶ決心をして、繆さんに宛て――東亜保全の問題について、直接意見の交換をしたいからおいで願いたい――旨の手紙を書き、南京総軍司令部の松井〔太久郎〕総参謀長にも繆さんの渡日を依頼する手紙を書いた。私は一応、内閣嘱託の身分になつてこの二通の手紙を持つて上海に飛んだ。

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