礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

歓送会を開いて日本軍を送ります(繆斌)

2020-07-24 02:48:32 | コラムと名言

◎歓送会を開いて日本軍を送ります(繆斌)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その八回目で、「Ⅱ」の「16 日本の敗戦と中国の内情」の後半を紹介する。前回、引用した部分のあと、一行おいて、次のように続く。

 こうした時に、たまたま上海からの路線があつた。この路線が、さつそくとりあげられて検討された――日本軍の謀略路線とは本質的に違つていた。現に日本の軍閥によつて迫害を受けていた。この路線には、朝日新聞社の緒方〔竹虎〕主筆、日本皇族の東久邇宮〔稔彦王〕が関係していることがわかつた。
 またこの路線には石原〔莞爾〕将軍と辻〔政信〕大佐が関係していた。石原将軍の周囲には、満洲の政治、軍事、経済に明るい人達がいる。辻大佐は、日本軍との接収交渉に役立つ。この路線に、念に力を入れ出した重慶のねらいは、この特殊な関係にあつた。
 私は、日本の運命は、黙つてこの手に乗つて、活を求めるよりほかに途〈ミチ〉はないと思つた。
【一行アキ】
 汪兆銘が既に死んだ後の、名ばかりになつた南京政府を、解消することは、問題でない。既にベルリンの陥落が迫つているドイツと手を切つて、日独伊三国同盟を脱退することも、問題でない。しかも、これは対外的には「南京政府解消」「日独伊三国同盟脱退」という大きな政治的な表明として役立つ。
 中国からの撤兵も、それと同時に、仏印、ビルマ方面の兵力の撤兵にも、中国側が同意するならば、日本の本国から遮断されて、ビルマにひつかつゝて動きがとれなくなつている日本の大兵団を、南方から引き揚げさせることに出来る。(Kは暗にこれに同意を示していた。)しかも、この撒兵は、「日本が中国から手を引いた」「南方に進駐した兵力を撤退さした」という日本の意思表示になる。
 これは、太平洋戦争を起した大きな原因を、解消したことになり、アメリカとの和平を開く素地をつくることになる。これらのことも、硫黄島で日本軍が持ちこたえているうちに、急速にことを決しなければ、意味がなくなる。
【一行アキ】
 具体案としては
一、南京政府を即時解消する。
 (周佛海等要人八名は日本側が日本内地で保護する。)
二、国民政府の南京還都まで南京に臨時に留守府を置く。
三、中日双方は内密に即時停戰命令を出す。日本軍は中国から完全に撤兵する。
 即時停戦は連合国との和平を前提とする。
四、中日双方から軍事代表者を出して撤兵と接収に関する委員会を設置する。
五、国民政府は南京還都後において日本の和平希望を連合国側(アメリカ)に伝達する。
【一行アキ】
 私はこの案が具体化され、実行に移された場合、満洲と華北とに対しては、日本軍の撤兵と国府軍の接収とは、そう急速に行われるものでないことが見透された。
 日本軍閥の「反共滅党」は、中国共産党を有利にする結果を生じていた。国民党と国府軍とは黄河以北から後退を余儀なくさせられたが、中国共産党は依然として延安の本拠に布陣していた。
 日本敗戦の瞬間をねらつてソ連が満洲に進出して来た場合、中共軍は延安から陸路、満洲に急行することが出来るが、国府軍は華北に軍事拠点を持つていなかった。重慶側は完全に北方への手がかりも足がかりも失つていた。満洲の争奪戦は明らかに中共側に分があつた。
 重慶側が多年呼号して来た満洲の失地回復もソ連が満洲に進入して来ればおしまいである。こゝに重慶側の焦躁が見られた。重慶側としては、何よりも先ずソ連の満洲進入を防止しなければならなかつた。
 華北においては、延安を中心とする中共軍に対する包囲作戦が完成されねばならなかつた。この二つとも日本軍の協力なしには到底現実出来ない現状にあつた。
 重慶は満洲に対してはソ連の侵入に備える意味からも日本軍の駐屯を希望していたし、華北に対しても、延安の中共軍勢力に対する重慶側の対策が完成するまで、ある期間の駐屯を希望していたからである。
 繆さんは意味深い笑いを浮べながら私にいつていた。
 「満洲と華北とはなかなか複雑です。重慶側から今度はあべこべに日本軍にもう少しいて下さいとたのむようになりますよ。」
【一行アキ】
 重慶側は撤兵、接収に当つては、辻政信大佐を日本側の代表に加えることを希望していた。武裝を解除しない日本軍の撤兵後退であるが、重慶側が日本軍との円満なる接近をのぞんでいる以上、私はさしたるトラブルなしに実行に移され得ると考えた。
 Kは「撤兵接収は円満に行きますよ」といつていたし、繆さんは「歓送会を開いて日本軍を送ります」といつていた。この歓送は早く帰つてくれという歓送であろうが、この日本軍の撤退に当つて示される日本軍の粛然たる態度如何によつては、あるいは過去の日本軍の行跡をつぐない得るか も知れぬと考えた。
【一行アキ】
 この案に対して、重慶側は内諾を与えていた。繆さんの東京行きに対しては、重慶は二様の構えをしていた。もし日本側が、誠意を示して乗つ来るならば、こちらも応じよう。もし日本側が誠意を示さない場合は、これは単なる繆さんの単独の行動であつたとして、葬り去ろうというのである。そして「三月底」即ち三月三十一日限りという期限を付していた。
 もし、この案がとりあげられて実現した場合、満洲の事情は今日とは変つていたかも知れない。そして中国側では更に大きく事情が変つていたことだろう。

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