◎日本の政治家は豚頭です(繆斌)
田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。「Ⅱ」の〝19 「豚頭」〟を紹介する。
19 「豚 頭」
繆斌工作は、軍閥の意識的な妨害で貴重な八箇月間を足踏みさせられ、明らかに時期を失してはいたが、まだ希望は持てた。一るの望みはあつたのである。
もし日本が、身を捨てゝ浮ぶ瀬を求める決意があつたならば、戦局の不利を有利に和平に展開出来るという、微妙な瀬戸際にあつた。
繆斌工作は、日本軍閥と、その手先きになり下つた外務官僚の必死の妨害によつて、ついに実現をみないまゝに日本の敗戦に終つた。
繆斌工作に、まづ正面から反対したのは、重光〔葵〕外相であり、背後から反対したものに、木戸〔幸一〕がある。
もとより日華事変の拡大派であった杉山〔元〕陸相と梅津〔美治郎〕参謀総長、南京政府とくされ縁の出来た柴山〔兼四郎〕陸軍次官が反対した。また現地の南京総軍司令部と大使館が反対したこと勿論であつた。総軍の今井〔武夫〕参謀副長と谷〔正之〕大使がわざわざ東京まで馳せつけて暗躍した。南京大使館の清水〔董三〕書記官が妨害の連絡を必死になつてやつていた。いずれもつまらない私事の面子〈メンツ〉からであった。またその裏にはいやしい金銭関係が存在していた。
近衛〔文麿〕と米内〔光政〕海相は相変らずどつちつかずのにえきらない態度であつた。
東久邇宮〔稔彦王〕内閣が、日本の敗戦の直後ではなく、せめて小磯内閣の当時に実現していたらと思うのである。
杉山は、終戦直後、自刃する前に
「あの時、繆斌工作をやつておけばよかつた。おしいことをした。」
と側近にもらしている。彼も暗愚なる日本軍閥の一人であつた。しかし、ごうがんな重光にくらべれば、まだ杉山には、これだけの素直さがあつた。
【一行アキ】
日本では「本土決戦」が呼号され、全国の隣組では竹槍の猛訓練が行われていた。この「日本の決意」には、さすがの知日派をもって自任していた繆さんも驚きの目を見張つていた。こんな原始的な武器で最後の決戰に国民をかりたてようとしている日本の指導者に、繆さんは義憤を感じていた。
「日本の政治家は豚頭です。中国の民衆はなつとくの行かないことは政府のいうことでもきゝません。日本の民衆はおとなしすぎます。日本の指導者は世界中で一番らくでしよう。日本の民衆は気の毒ですね。」
なお繆さんに対して小磯総理から経費の点に関して話があつたが、繆さんは日本の政府から金銭を受ける理由はないと謝絶したので、小磯総理は繆さんの希望する「清朝実録」という書籍を贈ることを約束した。しかし、これもついに実現されずに終つた。繆さんの潔癖を伝えたいと思う。
【一行アキ】
繆さんは、すぐに帰国せず、日本の桜を見物するという理由で、麹町六番町の五條珠実〈ゴジョウ・タマミ〉さん方に身をかくしていた。このまゝ繆さんを帰すに忍びず最後の努力が続けられた。
石原〔莞爾〕さんが繆さんに会いに山形から出て来た。石原さんは洋服に下駄ばきで航空本部総監の阿南惟幾〈アナミ・コレチカ〉大将に会いに出かけた。石原さんと阿南大将の会談があつた後で、私がよばれて阿南大将に繆工作の説明をした。石原さんと阿南大将とは、軍人の堕落腐敗について嘆いていた。
翌日、阿南大将に陸軍大臣の内命があつた。この日の朝、私は三鷹の彼の自宅で、繆工作について会談した。阿南陸相は
「自主的撤兵ならする。小磯総理はやめる必要はない。陸軍に繆工作を協力させる。」
とのことだつたので、私は自動車に同乗させてもらつて、緖方〔竹虎〕さんのところに駈けつけたが、緒方さんは〔小磯〕総理に辞表を出して帰つて来たところだつた。一足おくれてしまつた。
阿南陸相は、辻政信大佐を南京によび戻して、日本軍の撤兵を強行させるとかたく約していた。しかし、陸軍大臣になつた阿南陸相は、強硬派に包囲されてしまつたかたちだつた。私と阿南陸相との連絡は、周囲によつて遮断され連絡のしようがなくなつた。
中山優〈マサル〉氏が最後の努力に協力してくれた。外務省関係を説得につとめたが、外務省は依然としてソ連にすがる方針であつた。
阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原に会いたいなあ」と独言〈ヒトリゴト〉をいつていたと夫人が語つている。山形県鶴岡の石原さんの家には、阿南大将の死を弔う弔旗が立つていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう一度、皇軍を粛正するつもりであつたらしいが、あまりにも遅すぎた。
【一行アキ】
繆さんと石原さんとの会見は劇的であった。二人の話はつきなかつた。
石原さんは
「紙と木で出来た日本の家は、戦争なんか考えていなかつた証拠です。日本の住宅を見られても日本人がもともと平和の好きな民族であつたことをおわかり願いたい。
東京の宮城は、天皇の住いではありません。あれは武家の城だつたのです。日本の天皇の住いは京都にあります。京都の街のまん中に皇居があります。堀も城郭もなく、市民の誰でもが皇居を通り抜けています。日本の天皇は代々日本の民の中に住んでおられました。日本の天皇の皇居は日本の平和を表象しています。」
二人は枕をならべてねて、夜おそくまで話していた。仲のよい友達のように……。この夜、また空襲があつた。遠くで爆撃の地ひゞきがしていた。
【一行アキ】
うつうつたる繆さんの唯一の思い出となったものは、繆さんが朝日新聞社の嘉治隆一〈カジ・リュウイチ〉氏の案内で関口泰〈タイ〉氏、三淵忠彦〈ミブチ・タダヒコ〉氏、長谷川如是閑〈ニョゼカン〉氏等と戦時下の日本で快談したことであろう。
嘉治氏は、繆さんを、
「ヤルタ会談後の世界情勢を根拠として、間もなく迫つていたヒットラー失脚、桑港〈サンフランシスコ〉会議、沖縄失陥などを契機として惹起せらるべき極東情勢の急転を予見すること掌〈タナゴコロ〉を指すが如きものがあつた。今にして思えば、その予見の余りに正鵠〈セイコク〉を得ていたのにも驚くが、日本の政治家、軍人の不聡明と不熱心とにも驚かされる。」
と評している。
【一行アキ】
私はあくまで東久邇宮内閣の実現を期待して東京にとゞまることになり、繆さんには、私に代つて同志入交盛雄が同行して、繆さんは四月末、羽田を発つて上海に帰つた。
文中、「阿南大将に陸軍大臣の内命があつた」というのは、小磯内閣の、末期のことだったと思われる。ウィキペディア「阿南惟幾」の項には、次のようにある。
前政権の小磯内閣の最末期、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して、三長官会議が小磯國昭首相に無断で杉山元・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任の陸相とすることを決定したことに対し、予備役陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。
つまり、ここでいう「内命」とは、小磯首相からの内命ではなく、陸軍三長官の会議による内命だったことになる。小磯内閣の崩壊は、この陸相後任問題が、直接のキッカケだった。
田村真作の『愚かなる戦争』は、今回、紹介した箇所以外でも、紹介したい箇所が残っているが、明日は、話題を変える。