礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本国憲法は欽定憲法である(佐々木惣一)

2020-07-30 03:48:27 | コラムと名言

◎日本国憲法は欽定憲法である(佐々木惣一)

『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、丸山健の「日本国憲法制定の法理」という論文を紹介している。本日は、その三回目。

  三 旧憲法七三条説

 佐々木〔惣一〕博士によって代表される。主として、⑴ ポツダム宣言および八・一一回答の解釈、⑵ 憲法改正の限界の有無、の二点で、八月革命説と対立する。以下に分説しよう。
  佐々木博士は(1)、ポツダム宣言や八・一一回答にいうJapanese peopleに関し、それは、外国人(とくに連合国の)ではなく日本人をさしているのであり、しかも日本人とは、「当時君主国であった日本国の、君主たる天皇に対照するものとして国民というようなことではな」く、天皇をも含む「日本国人」(2) (3)と解すべきであり、またthe freely expressed willというのも、「連合国の指揮によらない、自由の息思ということ」すなわち、「連合国の意思で彼此〈カレコレ〉指揮すべきでない」という意味であって、要するに、いずれも、「連合国との関係においていうので、天皇との関係においていうのでないこと、明〈アキラカ〉である」と説明する。そして、八・一一回答にいわゆるthe ultimate form of government とは、「政治府の究極の形体」の意であり、「日本で政府というのと異なる。日本で政府といえば、通例、天皇を含まず、又国会、裁判所などをも含まないが、併し、government の中には天皇、国会、裁判所をも含む。広く政治の機関を含む」のであって、したがって、みぎ回答は、「日本国の政治府の一般体制のことに言及しているが、併し、その内容については何も言わず」、前述の意味での「日本国人」の意思に委ねるということであるとしている。そして、ポツダム宣言一二項により「自由に表明せられた日本国人の意思によるべきものは、平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立ということであって、改正せらるべき日本国の将来の憲法というようなものではない」というのである(八一・八五~九〇頁)。
 この見解によれば、ポツダム宣言受諾後も、旧憲法は従来どおり完全に有効であり、日本の政治形体は、占領政策と関係なしに、日本人の自由意思で決定されることになる(4) 。「この立論が、歴史的事実を少しでも正確につたえているかどうかは」、疑問であり、「形式論理のトリックである」との批判は(5) 、さけられまい。ポツダム宣言受諾によって、日本国民の自由な意思による政治形体の選択は、決して無条件・無制約のものではなく、同宣言の内容に矛盾しないことが、「日本にとっては義務となり連合国にとって干渉しうる権利となっていたこと」(6) は、決して無視することが許されないからである。
 また、河村〔又介〕博士は(7) 、八・一一回答のthe freely expressed will of the Japanese peopleというのは、「日本のことは日本国で自由に決定せよ」との意に解しても、「文意はかならずしも明瞭には通じない」として、「もっと政治的に解すべきではな」いかと主張する。すなわち、それは、「軍閥や、官僚や、独裁主義者によって、圧迫され、歪曲された意 思ではなく、多数国民の自由率直な意思、というほどの意味」であろうとする。だから、旧憲法七三条による「憲法の改正であっても、実質的に民意が十分自由に表明できるような手練をもってなされるのであれば、かならずしもこの回答の趣旨に反するものではな」く、この点は、後に、みぎの手続をマッカーサー司令部も承認し(8)かつ、その手統で制定された現憲法が、国民によって確定されたことを宣言したことに、同司令部から抗議がなかったことからも理解される、と説明している。要するに、博士の解釈では、八・一一回答を承認したことは、「将来究極の政治形態を決定するにあたって、第七十三条の規定を民主的に運用することを約束したにすぎないということになろう」。
 みぎに関して、宮沢〔俊義〕教授は(9) 、「回答の言葉だけからいうと、国民主権主義の確立という『厳密な法律的意義』をそれに与えることは、やや行きすぎ」かもしれないと、河村博士の所論を一応肯定しながらも、「しかし、回答の趣旨が、 ……『政治的』なものであるとしても、 まさにそのことが、主要な法律的意味をもつことを、見のがしてはなるまい」として、要は、同回答によれば、国民の意思いかんによっては、天皇制を否定する最終の政治形体が確立されることも可能であり、したがって旧憲法の原理であった「神権主義的な君主主権主義に立脚する政治形体は、そこで終局的に否定されている」点が、注意されなければならない、と答えている(10)。 
  早くから憲法改正無限界論者であった佐々木博士は(11) 、法が、現に存する法によらずに、法外の実力上の行動によって成立させられるとき、その行動は革命であり、その法は革命により成立すると解すべきであるから、「日本国憲法を成立せしめた行動は革命ではなく、日本国憲法は革命により成立したのではない。このことは、法の規定する内容如何の問題ではないから、日本国憲法が内容上、帝国憲法を全面的に変更するものであっても、その故に、その変更を目して革命といい、その憲法を目して革命による憲法といい得ないことには、変りはない。日本国憲法は……帝国憲法第七十三条の定めるところの、天皇の提案、帝国議会の議決、天皇の裁可という行動により、成立したものである。即ち、日本国憲法は天皇が制定したもうたのである。故に、日本国憲法は欽定憲法である」(12) (13)と説かれる。
 また、河村博士は、明治の末以来、わが国の公法学界において、国体と政体とを峻別し、後者は時勢に応じて変転するが、前者の変草は、旧国家が死滅して新国家が生誕することを意味し、したがって、国体規定の変革は、憲法改正によってはなしえない、という説が有力であったことを述べて、この説に依拠するならば格別、さもなければ、現憲法の成立の法理として、革命という考え方は必要がないとする。すなわち、国体規定も、いわば政体規定と同じように、統治組織に関するものであり、「この度の憲法改正は、同一国家内に於て、その統治組織が変革されたにすぎない」のであるから、それは、旧憲法七三条によってなされうることである。よって、「観来れば〈ミキタレバ〉、新憲法は、合法的過程を経て、明治憲法から生れ来たものであって、革命という概念を藉ら〈カラ〉なくとも、その法的根拠を説明し得る」と論じている(14)。

(1) 佐々木惣一「日本国憲法成立の過程に関する二三の事実と理論」憲法学論文選一巻五五頁以下。
(2) 博士は、第九〇帝国議会においても、「国民」の語は不適当で、「国人」というべきであるとし、不戦条約の例を引いて、この点を強調している(清水・前掲三四・一八七頁)。不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)一条の、peoplesの語義についての博士の見解は、前掲九〇頁以下。なお、政府は、「国民」には天皇も含まれるとの見解であった(清水・前掲一八三頁以下)。
(3) 鵜飼〔信成〕教授は、ポツダム宣言のpeopleについての、佐々木博士の見解は、「おそらく国際的文書解釈の原則に反するのではないかと思う」と述べている。西欧民主主義諸国で、peopleが、絶対君主への対立物として、国民主権を確立した歴史的遇程を考えると、それ以外の観念をポツダム宣言がもっていたとするには、特別の挙証が必要であり、また、憲法一〇条の用語例でも、博士のいわゆる国人に対しては、nationalの文字を当てていることから見ても、博士の所説には、積極的な根拠が欠けているというのが、主たる理由である(鵜飼信成「佐々木惣一博士『日本国憲法論』について」季刊法律学八号一四六頁以下)。これに対する、佐々木博士の反論、前掲九九頁以下。
(4) 一九四五年八月一三日付の外務省意見も、八・一一回答の第二項について、「元来国体の如何に関し外国よりの保障を求めんとするが如きは本末顛倒にして右は当然国内に於て決定すべきものとす従って敵側としては本問題については内政干渉の意図無く国民の自由意思に委すべしと言うは当然にしてこれ以上のことを期待するは無理なり」として、さらに、「我方においてはこれを又我国体に副う〈ソウ〉が如く解釈し得るものと信ず従って用語の如何に拘泥すること無く問題は国体については敵側において内政干渉の意図無きことを諒承すれば足り」ると述べている(憲法調査会・憲法制定の経過に関する小委員会報告書九九頁)。そして、八月一四日の御前会議もこの考え方をとり、同日の終戦の詔勅に、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」との文言が見られることになった。
(5) 長谷川・前掲二五〇頁。
(6) 芦部・前掲四八頁。
(7) 河村又介「新憲法生誕の法理」改造一九四七年五月号四頁以下、同・新憲法 と民主主義八〇頁以下(本文における引用は、前者による)。
(8) 一九四六年六月二一日のマッカーサー声明、いわゆる「議会における討議の三原則」が、「㈡本改正憲法が明治二二年発布の現行憲法と完全なる法的持続性を保障され」ることを必要としたことをいう。これは、すでに、五月一三日の、極東委員会の「日本の新憲法の採択についての原則」において決定されていた。旧憲法の改正手続による新憲法の制定を占領軍が承認したのは、ジョージア州の経験や、とくにハーグ条約に対する考慮に基づくもので(長谷川・前掲二五〇頁)、また、極東委員会も、「日本の憲法学者や超国家主義団体が、後に至って、新憲法は外部から強制されたものであり、法律上なんらの根拠なきものとして、無効論をふりかざすことのないためにとの念慮によ」ったといわれている(憲法調査会・前掲四六六頁)。
(9) 宮沢・前掲三九〇頁以下。
(10) 宮沢教授は、本文のような法律的効果は、降伏とともに、「物権的」に発生したものと解しているが、これに対して、政府は、降伏によっては、「債権的」に、そういう効果をもたらすべき義務が生じただけであると述べている(宮沢・前掲三九五頁)。
(11) 佐々木惣一「憲法改正」京都法学会雑誌一〇巻下・大礼記念号(一九一五年)一一三頁以下。
(12) 佐々木・日本国憲法論一一三頁 (ただし、博士は、現憲法の将来の改正は、欽定ではありえないとする)。同旨、大石義雄「現行日本国憲法の正当性批判」憲法の諸問題(清宮博士退職記念)一二頁。
(13) 八月革命説は、もとより、現憲法は民定憲法と解する。清宮〔四郎〕博士は、「現行憲法は、明治憲法にもとづいて制定されたのではなくて、国民が、国民主権の原理によって、新たに認められた憲法制定権にもとづき、その代表者を通じて制定したものとみなされるべきである。それは、民定憲法である」とし(清宮・前掲五一頁)、小林〔直樹〕教授は、旧憲法の形式的手続は、「欽定憲法の仮象」であるとしている(小林直樹 ・憲法講義上一一七頁)。なお、民定説・欽定説と異なり、現憲法は、協定憲法であるとする説がある。小森〔義峯〕教授は、「明治憲法七三条は、将来この憲法の改正をなす場合の手続を定めて、それは天皇と国民の代表たる帝国議会との合意によるべきことを強要して」おり、現憲法は、それによって成立した君民協定憲法であるとする(小森義峯「日本国憲法は民定なりや」同・憲法の基本問題二五頁)。もっとも、欽定・民定・協定という伝統的な分類は、「その限りでは形式主義的・画一主義的であって、少なくとも現実的・歴史的な観点からする他の分類によって補充されなければならない」性格のものであること、および現憲法の性格について、佐藤功「憲法成立の諸類型」清宮=佐藤編・憲法講座一巻五九頁以下、さらに、宮田豊・国法学一六八頁。
(14) 河村・前掲七頁以下。

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