礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柴山陸軍次官は小磯総理にニセ電報を見せていた

2020-07-22 04:32:12 | コラムと名言

◎柴山陸軍次官は小磯総理にニセ電報を見せていた

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その六回目で、「Ⅱ」の「15 「重慶路線」」を紹介したい。

   15 「重 慶 路 線」

 繆〔斌〕さんと山県〔初男〕氏の間では、繆さんの邸で、連日協議が開かれた。Kが、繆さんの広い邸のどこかに来て、連絡しているらしい。Kの顔を山県氏の一行は知らない。山県氏の一行には、中国人もいるのだが、Kのことはわからない。
 〔一九四五年〕一月に入ると、繆さんの広い邸の裏側の部屋に、Kの部屋が出来る。私は、たゞひやひやしているばかりだ。無電連絡だけは、繆さんのところに置かないことを忠告する。私もKを知っているだけで、K以外の中国人の顔は会つてもわからない。秘密室で何が行われているか、繆家の人にもわからない。繆さんも遠慮している。
 東京に繆さんが行くことにきまると、繆さんは、日本語は出来るが、中国語で日本側と交渉することになり、通訳を一人連れて行くことになる。その通訳に、蒋という人が内定したという。私に会つてくれとのことで、顔合せをすることになる。
 繆邸の洋風の広い応接室で顔合せをする。繆、私、蒋、Kの順で腰をかける。蒋は、私も顔だけは知つていた。日本軍に接収された紡績会社のことで、よく日本側との交渉に来ていた日本語の上手な中国人である。今、見ると彼は緊張しているのか、ブルブル小ぎざみにからだをふるわしている。Kがそばにいるので、身をかたくして、こわばつた表情である。日本語で話をするので、Kだけは一人離れたかたちである。私がKと顔を見合わすと、ニヤニヤ笑つている。このKがそんなにも恐しい人物なのだろうか。
 夜おそく、蒋の自家用の三輪車に、二人で乗つて帰る。その路で蒋が話すのである。
 「Kさんから正式に話がありました。私はどうしたものかと考えました。妻に相談しました。うしたら私の家内が――国家のためだ。あなたはこの命令を受けなければならない――というのです。それで決心しました。」
 蒋が昔書いた日本語会話の本が、現在重慶で、藍衣社の日本語用の教科書として、使われているのだそうである。その後、蒋が二三度、私のところに連絡に来たが、よほど小心な男とみえて、からだも顔も相変らずこわばらせてぎごちない態度だつた。私は蒋の緊張振りが気の毒でもあり、吹き出したくもあつた。
【一行アキ】
 繆さんと東京に行く一行は、繆さんと蒋と私を入れて七名と決つた。他の四名もそれぞれ紹介があつた。無電技師、暗号係等である。四名の中に一人若い女性がいた。この四名は繆家で一度も顔を見たことがない人達である。繆さんとは関係のない、K関係の人達であろう。地下工作をつゞけている人達らしい、たくましい顔つきである。見ているとKとの応答には全部軍隊式のはきはきした動作で答えている。この人達は日本側の山県氏に対しては、まだ正式に紹介されていない。「和平工作に溝通〔情報伝達〕する一切を検挙しないこと、身分の保証と保護を約すること」が要求されている。
 既に出発の準備は出来たが、まだ飛行機の問題でごたついている。小磯総理は情報入手という名目で繆さんを呼ぶことに、外務、陸、海軍と諒解をつけているのに、依然陸軍側がぐずぐずしている。小磯は、柴山〔兼四郎〕陸軍次官に何回となく督促したが、柴山は、総理には「繆斌に便宜を与えよ」という偽せ電報を見せ、現地軍には「便宜を与える必要なし」との電報を打つていた。
【一行アキ】
 時はいらいらしたしょうそうのうちに、徒らにたつて行く――一月六日アメリカ側はフィリッピンのリンガエンに上陸した。サンフランシスコからの短波の日本語放送を聞くと――兵士とともに上陸用舟艇に乘り組んだマッカーサー司令官は、まつ先きに海岸にとびこみ、膝まで海水にひたつて上陸した――と報じている。
 力だのみにしていた山下奉文も、どうしたのかあつさり敗けて、二月五日にはマニラに突入された。一方ドイツには、ベルリンの危機が迫つている。硫黄島の攻防戦が、はじまつた。胆国が空駿 でどれだけやられたかわからない。たゞ新聞の記事で判断するだけ。上海の日本側の新聞にも、爆災地の焦土に立たれた天皇の写真が大きく出る。
 南京大使館の清水書記官が、南京総軍の小川参謀と二人で繆さんを訪問に来る。私も立ち合つて、そばで会話を聞いている。ずるそうなさぐりを入れている。繆さんは、万事は日本の総理大臣にお会いした上でお話しする――と相手にしない。繆さんは、南京の大使館には昔ひどいめにあつてこりごりしている。二人は不服そうに帰つて行つた。
 もともと清水書記官は、通訳あがりの男で、中国語の上手な通訳官以外にとり得のある人物ではない。それがたまたま、南京政府の成立の時に、汪兆銘と日本側との通訳を彼が一手にやつたために、エラクのしあがつてしまつた。こんな内容のない男からの現地報告を基礎にして、国家存亡に関する重大な危機に、重光〔葵〕外相が重要会議で発言するのである。
 軍の情報は、意識的に最初からでたらめだつた。清水書記官の報告には、政策以上に繆さんにはねつけられた、こつぱ役人の腹いせが感情的に追加されている。
【一行アキ】
 三月に入つた。小磯総理のやつきの催促で、軍はしぶしぶながら、繆さん一人だけの飛行機の座席を許可した。中国側が要求した繆さん一行七名の「専機」は案の定、軍が猛烈に反対して貸してくれなかつた。
 私は繆さんが、重慶側の無電と一緒に取京に行くことは非常に面白いと思つていた。交渉が、手つとり早く連絡されることもよいし、その内容を、日本側で傍受することも出来た。軍閥どもは、敵性の無電を東京に持つて行くことを怖れていたが、もうB29が毎日のように東京を空襲している時に、無電一台をそんなに警戒する必要はなかつた。残念なことであつたと今でも思つている。
 一人でも行くかどうか、ということに関して、Kとの間に、打合せがあり、Kと重慶との間に、連絡があつた。Kは一々無電で連絡して、重慶側の指令によつて動いていた。Kの話では、最近のKの無電報告には、至急特秘を表わす赤紙がはられ、戴笠の手から直接に蔣介石に連絡されているとのことであつた。
 重慶におけるアメリカ側との交渉も一切、戴笠の手を通じてなされていた。アメリカとの路線が同じ戴笠の手を通じてなされていることは、アメリカと日本との和平の仲介を、蒋介石に依頼する機会をつかむことも出来ると、私は考えた。もちろん今度の繆さんが東京に行くことも、アメリカには通じる。それはかえつて都合がよいと思つた。
 繆さんが、単独で東京に行くことに決まり、私も後から、飛行機の便をつかみ次第に行くことになつた。

 文中、「南京大使館の清水書記官」、「南京総軍の小川参謀」とあるのは、それぞれ、清水董三(とうぞう)、小川哲雄のことではないかと思うが、断定は避ける。

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