◎敗戦の冷厳なる事実にわれとわが耳をうたぐった
昨年の八月に、朝日新聞社編『終戦記録』(朝日新聞社、一九四五年一一月)という本を紹介した。本年も、「終戦記念日」が近くなってきたので、再び、この本を紹介してみたいと思う。今回、紹介するのは、巻頭にある「新日本への発足」という文章である。筆者は、有竹修二(一九〇二~一九七六)、当時の朝日新聞社論説委員である。
新 日 本 へ の 発 足 有 竹 修 二
八月十五日、玉音を拝す
昭和二十年八月十四日をもつて、わが日本は、その性格一変した。といふよりも、従来の日本は、この日をもつて終焉し、新しい日本国が八月十五日から肇め〈はじめ〉られた。この日の正午、畏くも〈カシコクモ〉玉音を拝し、心から泣かぬ国民は、一人とてもゐなかつた。
あゝ、日本は敗けたのだ。大東亜戦争は敗れたのだ。それは、多くの国民にとつては、余りのことだつた。想ひ設けぬことだつた。豁然〈カツゼン〉として脚下の大地が裂けて、眼前に底知れぬ谷が生じた気持が人々を支配した。玉音を呆然と聴いて、事の真意を掴めないものもゐた。中には、最近の戦局の推移を見て、事の容易ならざるを感ずるものもすくなくなかつたであらう。殊に沖縄失陥後の戦戰局、敵襲は日に日に激化し国内四十有余都市の大規模なる焼爆撃を目撃し、さらに広島市の新型爆弾攻撃等をまのあたりに見、なほ八月九日ソ連邦参戦の報に接するに及んで、事の緊迫さを身に犇々と〈ヒシヒシト〉と感ずるものがゐたに違ひない。それら、比較的聡明にして、鋭い神経を持つ人々も、やはり、よもやといふ気持をもつて、十五日正午の重大放送を拝聴し、はじめてきく敗戦の冷厳なる事実の前に、われとわが耳を疑ぐつたのである。
「戦局必ずしも好転せず」といひ「世界の大勢亦我に利あらず」といひ「敵は新に〈アラタニ〉残虐なる爆弾を使用して頻に〈シキリニ〉無辜〈ムコ〉を殺傷し」といひ、みな、国民すベてが知悉してゐる事実である。たゞ多くの国民は、この事実あるが故に、日本帝国がもはや干戈〈カンカ〉を収めねばならぬ事態にたちいたつてゐるとは想はなかつたのである。
人々の多くが、容易ならぬ戦ひであることを十分知つてゐた。端的にいへば、味方はまさに分が無い、敵は調子づいてゐる。笠にかゝつて、われにのしかゝつて来つゝあると思つてゐた。併し、このまゝ簡単に押しきられてしまふものとは考へなかつた。戦ひはもつともつと激しさを増すであらう、われわれは、もつともつとひどい生活に堪へねばならぬてあらう、そして、真に雌雄を決する決戦がいづれあるだらう。と、こんな風に考へてゐたのである。やや、国政の表裏に通ずるものは、日本政府が、かねてソ連に対して、何事かは外交的の働き掛けを続けてゐることを知つてゐたであらう、外交当局がソ連をして、英米の側に起たしめず、出来得れば、日本に対して好意を持つ国たらしめやうといふ働きかけから、何か一段進んだ外交努力を、この国に仕掛けてゐることを耳にしてゐたであらう。しかし、その人々でさへも、この日本の企図に対して、ソ連は容易に応ずべくもない、従つて、日米戦争はこのまゝの形で継続され、この戦争を囲繞〈イジョウ〉する列国の関係は、大変化なく推移するであらうと観測してゐたものである。この程度の知識ある人には、かのポツダム宣言に対して、日本政府が、敢て反対、抗弁の辞をもちゐず、黙殺の態度を採つたことに対して多少解し〈ゲシ〉かねるものがあつたであらう。さらに八月九日、ソ連軍の一部が東部および西部満ソ国境を越え、その航空機が北満北鮮の空襲に来つた〈キタッタ〉との報道に接したとき、事態いよいよ極まるの感じを受けたであらう。
それでも、敗戦は、余りにも信じ難き冷厳なる事態であつた。二千六百年、日本人がはじめて知る敗北の経験である。
人々は敗戦を身に犇々と感ずるとともに、この敗戦の大事実を国民に垂示し給ふため、畏くも天皇陛下が御親ら〈オンミズカラ〉マイクに起たせ給うたことを、深く深く考へねばならなかつた。国民ははじめて拝する玉音にたゞおさへんとしておさへ難き泪にむせぶのみであつた。この歴史的瞬間に、天子と国民が、ともにともに国を先祖より承け〈ウケ〉、これを子孫に遺さんがため、固く固く結びついた皇国の真姿顕現を見た。あの玉音の御抑揚、人々は必ずや、このことを、後々までも語り合ふことであらう。【以下、次回】