礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小磯内閣に対するボイコットが南京まで延びていた

2020-07-19 02:59:34 | コラムと名言

◎小磯内閣に対するボイコットが南京まで延びていた

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その三回目で、「Ⅱ」の「12 和平工作を妨げるもの」を紹介してみたい。

   12 和 平 工 作 を 妨 げ る も の

 私が東京に出かけている留守中に上海には危機が迫つていた。私は留守中の連絡を繆〔斌〕さんと仲の良かつた朝日新聞の上海支局長をしていた野村宜記者にたのんでいた。
 その野村記者は、自宅から繆さんと話をする電話が、時々声が大きくなつたり小さくなつたりするので変だなと思って話しているうちに、すっかり憲兵隊に話の内容を傍受されていた。野村記者が朝日の自動車で繆さんを訪問しての帰り路、後方から追いかけて来た自動車が急に前に出て、朝日の自動車の前で突然とまつたと思つたら、中から憲兵の私服が出て来て、野村記者を憲兵隊の自動車に移して憲兵隊に連行した。彼は憲兵の無礼極まる暴行を受けて左の耳の鼓膜を破られた。
【一行アキ】
 繆さんは緒方〔竹虎〕さんの友情に応じてくれたが、南京の軍がいうことをきかない――小磯〔国昭〕内閣に対する軍のボイコットが南京まで延びているのに私は驚いた。小磯は反軍だ、海軍の内閣だ――といつて、てんで相手にしない。松井〔太久郎〕総参謀長に会って緒方さんの手紙を渡したが、彼は手紙を読んでいるうちに顔色を変えた。私はその後も、何度か催促に行つたが、返事をにごしている。
 梅津〔美治郎〕のひきで、汪〔兆銘〕政権の顧問から陸軍次官に栄転して、明日東京に発つという柴山〔兼四郎〕をつかまえて交渉したが、彼は南京政府にこだわつて、公式的なものでは困る、繆さんが自発的に行くのならよいというので、その通りに飛行機の座席係に交渉すると、中国人関係は、南京政府を通じて来いという。新しく汪政権の顧問になつた矢崎勘十〈ヤザキ・カンジュウ〉に頼みに行くと、以前とはがらりと態度を変えて、そつぽを向いている。
 繆さんに相談すると、私は日本の軍人に会いたくない。今もし私が南京の日本軍司令部に頭を下げて行つたら、私の信用はなくなるという――もっともな話である。かんじんの私が、日本軍閥とけんかのし通しで、彼等の受けはよくない。私自身が飛行機の席がとれなくて、海軍にたのんでいる有様〈アリサマ〉である。こんな時に、辻〔政信〕大佐がいてくれたらと思うのだが、彼はビルマの山奥で悪戦苦闘中である。
【一行アキ】
 現地でも、中央でも、自分達が出来もしないくせに、重慶工作のお株を横取りされた気持でいる。南京の大使館あたりまでが、何とかいつて反対している。――日本が生きるか、死ぬるかの境にあるのに、まだこの縄張り争いである。それだけならがまんも出来るが、この一連の中国侵略者どもが、汚れた金につながつているという事実だ。彼等が汪政権の一部とぐるになつて、アへンや塩や煙草の専売でしこたまもうけた金を分けあつている関係である。
 彼等がいう南京政府に対する仁義とは、このたゞれたくされ縁につながる「共存共栄」のことであり、戦争と民衆の苦難の上にする「安居楽業」のことであつた。私は日本の軍閥が戦に敗け、後期の南京政府が偽政権として亡びることは当然だと思つた。
 汪兆銘は病床に在つた。前途の見透しを失つた汪派の一部の要人達は、自暴自棄になつていた。彼等はたゞ刹那的な逸楽を追つていた。彼等はその地位を保持するためにはどんなことでもした。
 いかめしそうに構えている日本の将軍や謹厳そうな顔つきをしている日本の高官に対して、ずばりっと切り出すのである――ダイヤですか、金条ですか、それとも小切手を書きましようか――この取引は真剣勝負で呼吸がいると彼等の仲間ではいわれている。
 日本の将軍や高官連はこの闇取引の秘密はまさかばれまいと思つているらしいが、中国側の裏面では通々〈ツウツウ〉でそれぞれ相場までつけられていた。半公然たる闇取引である。藍衣社ではこの金銭関係のリストさえつくつていた。これこそ国恥だ。
 私は不幸にして、日本の将軍や外務関係の高官が、こうした中国要人からの申し出をけつたという美談? を聞かない。勿論これは、汪政権下の全部ではない。また中国に関係した日本の将軍、高官の全部でもない。しかし、果して幾人、身の潔白を誇り得る人々がいるだろうか?
【一行アキ】
 繆さんは、緖方さんの信頼に感激していた。Kは積極的な反応を示して来た。この活発な動きに対して、私はどうすることも出来ない。自分の無力さに泣いた。
 東京に帰つた柴山陸軍次官への緒方さんの交渉を、期待して待つたが、何の音沙汰もなかつた。
 私はもう一度東京に引き返して、どうしても繆さんの東京行きを、実現しなければならぬと考えた。〔一九四四年〕九月に私は海軍関係の飛行機で再び東京に飛んだ。
 さつそく緒方さんに、繆さん連れ出しを交渉したが、軍の全面的拒否にあつて、どうすることも出来なかつた。小磯内閣の無力と、軍閥の橫暴とが痛感された。
 柴山陸軍次官が、緒方さんを訪問して――重慶工作は、南京総軍に一任してある。南京では、現に周佛海を通じて工作しているから、一時繆斌の工作は見合せてもらいたい――とかけ合いに来た。緖方さんが、――僕は戦局の現状から事は急を要するのだが、周佛海工作に自信があるかどうか――と質した〈タダシタ〉が、これには何等納得のいく説明はなかつた。
 周佛海の邸内に無電台はあつたが、型だけであつた。藍衣社のKには周佛海工作の内容がはつきりとわかつていた。重慶ではてんで相手にしていなかつた。たゞ周佛海個人の重慶に対する了解運動として役立つていたに過ぎない。
 せつかくの努力が軍閥の反対で中止になつた。刻々に迫る戦局の不利に、みすみすあれだけの反応をつかみながら、貴重な時間が無駄にされるのが私には悲しかつた。あV祖国が、愛する日本が 亡びつゝある……。そしてこの愚かなる戦争の犧牲となって、日本の大切な大切な若人達が死んで行く……。

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