礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

形あるもののある限り接着剤の需要は無限(今村善次郎)

2020-10-02 01:30:23 | コラムと名言

◎形あるもののある限り接着剤の需要は無限(今村善次郎)

 セメダインの話の続きである。『セメダイン五十年史』(セメダイン株式会社、一九七三)から、セメダイン株式会社の創業者・今村善次郎(一八九〇~一九七一)について記している箇所を紹介してみよう(一二~一六ページ)。

 努力の人
 生来、自主独立の気性に富み、また人情家で努力の人として知られた初代社長今村善次郎は、明治二十三年〔一八九〇〕十一月十九日、富山県高岡村(現在の高岡市)に農業を営む父今村五郎平の次男として出生した。
 幼時から向学心に厚く、加えて次男である宿命から、成人すれば早晩、生家を離れて独立すべき立場にあったので、物心がつく頃には、小学校を終えたら東京に出て勉学し、ゆくゆくは実業人として身を立てたいものと心中秘かに志を立てていた。
 その頃の東京、つまり明治の東京の一つの特色は、政治都市として国政の中心であると同時に、教育都市としての一面を急速に強めつつあったことである。その東京に〝笈〈キュウ〉を負う〟た前途有為の青少年たちが、全国各地から続々と参集し、ともに青雲の志を抱いて学業に励んでいた。
 その東京における将来の立身を夢みて、今村善次郎が故郷をあとに単身上京したのは、明治四十年〔一九〇七〕四月、彼がようやく数えで十八歳の春であった。
 もちろん、生家からの仕送りに頼るなどの気持は毛頭なく、上京と同時にYMCAの給仕を振り出しにあらゆる職業を転々としながら生計を立て、かたわら松富夜間中学に通学して懸命に勉強した。
 文字通り血のにじむような苦学力行〈クガクリッコウ〉であったが、上京以来、足かけ五年間の苦闘のすえに明治四十四年〔一九一一〕三月、彼は見事に夜間中学を卒業した。田舎出の善次郎にとって、働きつつ学んだこの四年間の苦労はまさに筆舌に尽くし難いものがあったが、彼はこの最初の試練を乗り切ることにより、待望の卒業証書を手にすると同時に、いかなる逆境にもめげない不撓不屈の強靭な精神力を培う機会を得た。

 化学接着剤の国産化に先鞭
 この間にも時は流れて、明治四十五年〔一九一二〕七月三十日、明治天皇が崩御され、新帝即位して世は大正時代となった。今村善次郎が上京して六年目の出来事であった。
 越えて大正三年〔一九二四〕七月、セルビアの一青年がオーストリア皇太子に向かって放った一発のピストルを起爆剤にして、第一次世界大戦が突発した。同年八月には、日本も日英同盟のよしみにしたがって参戦し、戦火は大正七年〔一八一八〕十一月、ドイツ軍の無条件降伏に至るまで、実に足かけ五年の長きにわたって継続した。開戦とともに海上輪送は日を追って困難なものとなり、必然的に質易は衰退した。当然海外からの必要物資の輪入は途絶し、とくに輪入品を原料とする多くの企業はまさに存亡の岐路に立たされた。
 かくて、日増しに激しさを加える輪入の減少と需要増加の交錯するなかに、わが国における各種化学工業の発展の気連が急速に高まったのであった。
 この間、善次郎が販売していた商品は、自ら開発した家具用ワックスの「ひかるクリーム」と靴ずみの類、それに前述の「メンダイン」など外国製の接着剤であったが、これら輪入品の販売を手がけている間に、外国製品の独占的な市場支配を目のあたりにした彼は、いよいよふんまんやる方ないものを感じるようになっていた。
 そして一方では、「生あるものは死し、形あるものはこわれる」、したがって「形あるもののある限り、これを補修する接着剤の需要は無限のものである」との発想から、接着剤そのものの将来性に着目し、遠からずその国産化に手を染めることを決意したのである。
 かくして、今村善次郎が矢もたてもたまらぬ思いで、接着剤の本格的研究に着手したのは大正八年〔一九一九〕のことであった。下谷区仲御徒町〈ナカオカチマチ〉の借家住まいの一室をにわかづくりの研究室にあて、ここに試験管やナベ、カマを持ち込み、それこそ家中を「のり」でべたべたに汚しながらその研究生活は始まった。
 時あたかも、その前年十一月に第一次世界大戦が終息したばかりであり、その反動不況が早くも世界中に不気味な波紋を広げ始めていた頃である。
 そして今村善次郎のこうした努力こそ、まぎれもなくわが国における化学接着剤国産化への具体的な動きの第一歩であった。
 その狂気の沙汰とも思える研究に対して、当時、理解ある彼の協力者は広い世間に妻さきがただ一人であった。ちなみに、さき夫人とはそれより三年前の大正五年〔一九一六〕に縁あって結ばれたのであるが、夫人は兵庫県出石郡〈イズシグン〉の武家の出で、当時としては数少ない婦人服のデザイナーとして一流の腕をもち、寝食を忘れて日夜研究に没頭する夫を助けて、経済的にも、まさに内助の功大なるものがあった。
 さらに付言すれば、今村夫妻が相協力して接着剤の研究に着手する直前、すなわち大正七年に長男善弥(元当社取締役)が誕生し、夫妻にとっては非願達成の吉兆ともなった。

 文中に、「松富夜間中学」という校名があるが、どういう学校なのか不明。博雅の御教示を乞う。
 次回は、「セメダインA号」、「セメダインC]について紹介する。

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