礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝君の考えを、あのまま受け入れてはあぶない(橋本進吉)

2020-10-12 00:01:05 | コラムと名言

◎時枝君の考えを、あのまま受け入れてはあぶない(橋本進吉)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十四 日本文法論」を紹介している。本日は、その六回目。

 進んで国語学者は時枝博士のこの詞辞の論をどのように評価するのであろうか。それについて考えよう。いま大野晋〈ススム〉博士の「明治以後の日本文法論――断片を覚書として――」(「解釈と鑑賞」昭和四十年十月号、特集文法学説の整理)という文章を見ると、大野博士は山田〔孝雄〕文法、橋本文法、橋本文法に続いて時枝文法について、「時枝博士は、言語表現における、詞性と、辞性とを区別されたが、それを品詞分類の原理として適用され、あらゆる単語は、詞の性質を持つものと、辞の性質を持つものとの二つに限ると考えられた。詞の性質と辞の性質とは全く相違するものであるとしても、単語を、それによって詞の性質だけ持つもの、辞の性質だけ持つものとに二分するのは急ぎすぎる。人間に善をなす性質と悪をなす性質とがあり、善と悪とは全く相反するとしても、それによって、人間を善玉と悪玉の二つに限り、必ずそのどちらかに属させなければならないとしたらおかしくはないか。善の性質の下に悪の性質を兼ね備えた人間もあるし、時がたって、社会の進展によって、昔は悪であったことが、善として受けとられるようになることもある。それに似て、一つの単語として扱われているものでも、詞性の下に辞性を従えている単語がありはしないか。例えば、動詞、形容詞など。また詞の形をしていながら、その機能において常に辞の機能を含んで使われる単語がありはしないか。例えば副詞など。そういう面について、時枝文法は、素朴な、善玉、悪玉的観点に立って品詞分類を行っており、それのために、種々の無理(例えばゼロ記号の説など)をあえてしなければならなくなっている。」と述べていられるが正鵠〈セイコク〉をえている。そういえば大野博士は早く「言語過程説に於ける詞・辞の分類について」(「国語と国文学」昭和二十五年五月号)という論文でこのことをいわれたのを思い起こす。
 おわりに近づいた。ここで私は時枝〔誠記〕博士の詞辞の論を中心とする文法論を逆に橋本〔進吉〕博士がどのように評価されたかを見たいと思う。まず橋本博士の著作集『国文法体系論(講義集二)』(昭和三十四年)を開き、橋本博士の晩年の筆になる、文と文節と連文節についての項を見ると、
《〇活用語が、それだけで文節を構成した場合は、体言が格助詞助動詞等と共に文節を構成したものにあたるのである。例へば、
  終止法 ―だ。              連体法 ―の、
  準体法 ―助動詞(だ、です、らしい)   命令法 呼かけ、
 さすれば、時枝氏のゼロ符号なるものは無意義であり、まちがひである。》
とあって時枝博士の零記号は認められないのである。それと符節を合わせたように同じ橋本博士の著作集『国語学史・国語特質論(講義集四・五)』(昭和五十八年)を開くと、その解説を書かれた大野〔晋〕博士が橋本博士の晩年のことを詳しく述べ、
《昭和二十年に入り、年賀に伺うと、床の上に坐っておられた。そして「ここでもまあいいだろう。今年は寝正月なんだよ。」と言われた。床の脇に小林英夫氏訳のソシュールの『言語学原論』が開かれて置いてあった。その時、「時枝君の考えは、いい所があるけれども、あのまま受け入れてはあぶない。小林(英夫)君などの書いた物をよく読みなさい。」と言われた。》
といわれている。橋本博士はこの年の一月に逝かれたのであるから、このことばはまるで大野博士に対する遺言の趣きである。これによると橋本博士が時枝博士の詞辞の論に否定的であったことは確かのようで、このことは橋本博士の他の門下の方々の言辞によっても裏づけられる。その一つは故時枝博士の一年祭を迎え東京大学国語研究室から出した「国語研究室」(第八号、昭和四十三年十月、時枝誠記博士追悼)に、橋本博士の門下生の林大〈ハヤシ・オオキ〉氏が寄せられた一文で、林氏は「書くのもつらいが書かないのもつらい思いである。〇橋本先生が二階で原稿を読んでおられた。『零記号なんて、こんなばかなことがあるものかい。』と言われた。時枝先生東京着任のころのことである。〇昭和十二年〔一九三七〕、西尾光雄さんたちに呼びつけられて過程説をどう思うと聞かれた。卒業試験以来の口頭試問だが、私は『過程』にはあまり驚いてはいなかった。〇文の種類などということを考えると、記号零に載る意味があると考えなければならないと思うようになった。観察的立場とか主体的立場とか、わかってきたような気がする。お話してみたら、『ああそうですか。』ぐらいだったかもしれない。」と述べられている。橋本博士は林氏にとって岳父にあたる。これはおそらく橋本博士が時枝博士を東京大学の国語学の後継者として迎えるべく、『国語学原論』を読んでおられるのであろう。あるいは橋本博士はこの大著を教授会に学位論文として通すために読んでおられるのかもしれない。いずれにしても 橋本博士は零記号に引っかかっておられるのである。
 もう一つはやはり林大氏と東京大学同期の金田一春彦博士が書かれた「国学院と父、それと私」(「国学院雑誌」昭和四十七年十一月、金田一京助博士追悼号)という回想の一文である。その中で金田一博士は父君京助博士が国学院大学で大勢の人々に博士号をあげておられたことに関わって、「父のことに戻るが、終戦後、父は国学院大学から博士論文の審査を頼まれると、次々と甘い点を付けてパスさせはじめた。これは外の人たちの間に評判になって、私も気になっていたが、父のために弁ずるならば、父はやはり一々の論文に感心したからいい点をつけていたので、もしだめだと思ったら、敢然として落第点をつけたろうと思う。たとえば、かりに時枝誠記博士がまだ若年だったとして、『国語学原論』の一部を論文として提出されたら、パスさせたかどうか疑問である。父は愛する国学院の権威を高めることになると思って、国学院関係の人たちに博士号をあげていたものと思う。」と述べられている。いったい『国語学原論』のどの部分がだめなのかたしかにいっておられないが、これは時枝博士に対して実に厳しい批評ではないか。そういえば金田一博士は近年「日本語学者列伝橋本進吉伝㈠㈡㈢」(「日本語学」昭和五十八年二月号、三月号、四月号)を書かれ、その㈢で橋本博士が時枝博士の『国語学原論』を東京大学で学位論文として教授会を通すために意外な苦心をしたのだということを京助博士の談として記されている。【以下、次回】

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