◎「セメダインA号」から「セメダインC」へ
本日も、セメダインの話。『セメダイン五十年史』(セメダイン株式会社、一九七三)から、「セメダインA号」、「セメダインC」について記しているところを紹介してみよう(二六~三二ページ)。
「セメダインA号」を完成
大正十二年〔一九二三〕年秋に、「セメダイン」の製造に成功したことはすでに述べたが、その商品化にあたっては、とくに消費者に強い印象を与えるように配慮して黄色地に赤字を配したカラフルなラベルを使用し、これを「セメダインA号」として市場に送ったが、同時に将来商品の多様化を進める場合の足がかりとして、旧来の国産「のり」に大幅な改良を加えたデキストリン系の新製品「桜のり」もこの時期に完成した。
そして実際には、この「桜のり」がいわば「セメダイン」の露払いの形で一足先に発売され、昭和初期における市場の人気を集めたのである。次いでいよいよ「セメダインA号」の発売となったのであるが、その初期の製品は、今日、世界で一流といわれる日本商品の多くが当初は そうであったように、最初はやはり輸入製品の模倣の域を出るものではなかった。
それは、たしかに外国製品にくらべて遜色のない性能を備えたものではあったが、しかし当時の輸入製品に共通の欠点として指摘されていた耐水性、耐熱性についての弱点も、これをそのまま受け継いでいたのである。
つまり先行する外国製品に〝匹敵〟するものではあったが、まだ〝勝る〟とはいい得ない商品だったわけである。しかし、発売した「セメダインA号」は、そのころからようやく人々の間に高まりをみせてきた国産品愛用の動きにも支えられ、またその熱心な実演販売が効を奏してか、売れ行き自体は予想を上回る好成績をみせていた。
だが、善次郎自身は、せっかく開発した「セメダイン」が、水に弱く、とくに梅雨時期に依然として苦情の聞かれることがいかにも無念であった。
そこで、「A号」の普及に精を出す一方では、さらにその改良に着手し、これに続く最初の製品として、まずニカワに替えてミルクカゼインを原料とする新しい接着剤を考案した。その名の示す通り牛乳の脂肪からとった成分を原料とするもので、これが「桜のり」、「セメダインA号」に続くいわば第三の商品として発売されたのである。
ところで、接着剤という言葉だが、これもどうやら今村善次郎が「セメダイン」の発売にあたって一般化したもののようである。事実、そのころには慣用語として「接着剤」という言葉はなく、一般には「のり」、産業界などでは「接合剤」あるいは「こう着剤」という名称で呼ばれていたのである。
それを「セメタイン」の発売にあたって、「のり」のもつ接着力のイメージよりも、さらに強力な印象を与える適切な呼び名はないものかと思案したあげく、今日の「接着剤」という表現が生まれたのであった。
また、接着剤か接着材かという疑問については、名付け親である今村善次郎の生前の言によれば、「常識的には〝材〟の方が正しいのだろうが、当時は文房具屋と同時に薬屋が有力な販売店であったから、薬屋で売るからには〝剤〟のほうがよかろうということで接着剤にした」ということであつた。
話が少しばかり余談めいたが、ともあれ「セメダインA号」は、初の国産接着剤として次第に市場の支持を得るようになり、やがてその名の全国的に普及するとともに、ぽつぽつ競争相手も出現し、いわゆる商標の盗用、誤用等の被害が懸念されるに至ったので、昭和六年〔一九三一〕七月、弁理士の助言にしたがって「セメダイン」および「CEMEDINE」の商標を正式に登録した。
この間にも、耐水、速乾、耐熱、耐油性の面で、さらに性能の高い接着剤の開発をめざして創業者の不眠不休の努力が統けられたのであるが、求めるはやすく、これを実現することはなかなかに至難なことであった。しかもその頃、今村善次郎は過労から高血圧に悩まされ、生命保険の加入さえ断わられるという病状であったが、静養をすすめる医者や家族の言葉には耳もかさず、薬瓶を片手に今日は南、明日は北へと、研究に販売に、相も変わらず東奔西走の日を送っていたという。
そして遂に、当社発展の原動力ともなった画期的な製品「セメダインC」の開発に成功した。
画期的製品「セメダインC」の完成
徒手空拳で発足した今村商店も、多年にわたる創業者の努力が次第に結実して、どうにか大不況下の創業の試練を切り抜け昭和十年〔一九三五〕頃には、「セメダインA号」、「セロハンノリ」、「ホームセメダイン」(アラビアゴムノリ)などの接着剤、家具用ワックス「ひかるクリーム」、「ライッククリーム」、麻雀牌用の「牌クリーナー」、「牌麗花」などの艶出し剤、それにデキストリン系の事務用および写真用「桜のり」、十二色のラッカー「セロバスター」、模型飛行機用ゴムの補助剤などに用いた潤滑剤「ニューブリカント」などの消費材製品を主力に、その納入先も文具、模型飛行機、手芸材料、印材、セロハン紙などの各問屋筋および時計材料商、撞球用具店、写真材料商など全国各地の有名店多数を獲得、経営もようやく安定成長の足どりをみせるようになってきた。
一方、内部の体制も、住み込みの従業員が五名ほどにふえ、すでに十八歳の若者に成長した長男〔善弥〕も父を助けて店を切り回すようになっていた。また昭和十三年〔一九三八〕春には、内山三郎(現東京工場長)が入店、さらに深川化学工業学校に学んだ佐藤十三が非常勤の技術顧問として加わった。
とくに工業学校を卒業した佐藤技師の参加は、店主にとっても極めて心強いことであった。その佐藤技師は、当時三十歳の独身。ひょうひょうとした人柄で、いうところの酒仙であった。 酔えば路上に眠り、真冬に浴衣がけ、カンカン帽のいでたちで、平気で大道を活歩するという奇行の持ち主でもあったが、接着剤には造詣が深く、創業者の熱意に応えて研究活動に新風を吹き込んだ。
すなわち、具体的にはそれまでの天然物を利用した接着剤から一転して、人工材料による新しい型の接着剤の開発研究に先鞭をつけ、その成果として、ニトロセルローズを素材とする画期的な溶剤型接着剤の製造に成功した。
かくて創業期における目玉商品であり、しかも今日なお市場に健在を誇る「セメダインC」は、昭和十三年初頭に完成し、続いて「セメテックスA」、「ラバードーフ」など当時としてはユニークな生産材製品が相ついで誕生した。
とくに「セメダインC」は、その耐水性、速乾性、また仕上りが美しいという特性において、外国製品を十分に凌駕するものであった。ここに創業者今村善次郎の多年の宿願は達成されるところとなり、昭和十三年三月、「セメダインC」は、これまでにも増して華やかに売り出された。
そのキャッチフレーズには、
「なんでもよくつくセメダイン」
無色透明、耐水、耐熱、速乾性良し
と、誇らしく、しかも自信をもって記されていた。
かくして、国産接着剤「セメダイン」の名は全国的に知られるようになり、顧客大方の温かいご支持を得て、当社は「セメダインC」と「セメテノクス」を両輪に、第一次の降盛期を迎えることができた。【以下、略】
ちなみに、「セメダインC」が発売された時点では、まだ、「セメダインB」は開発されていない。「セメダインB」はゴム系接着剤で、その発売は一九四〇年(昭和一五)だったという(同書二〇四ページ)。
明日は、話題を変える。ただし、時枝誠記の言語過程説には、まだ戻らない。