◎「ことば」は知識や文学の宝庫を開く鍵(時枝誠記)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介に戻る。
本日以降は、「第十七 言語の機能」を紹介してみたい。
第十七 言 語 の 機 能
一
私はこの『時枝誠記研究』を書き進めるのに時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士の記念碑となる著書はどれなのか論文はどれなのかと考えながら書いて来た。ここではそうしたものから少し離れて時枝博士がみずから書き中学校なり高等学校なりの教科書に収められた文章について考えてみようと思う。そうはいっても時枝博士というと読者はすぐ博士が書かれた文法教科書、たとえば中教出版株式会社から出た『中等国文法口語編』(昭和二十四年)、『中等国文法文語編』(昭和二十五年)や有名な教授用参考書『中等国文法別記口語編』(昭和二十五年)、『中等国文法別記文語編』(昭和二十六年)などを想起されるであろうが、しかし、私がここで取り上げるのはそうした文法教科書ではなく、やはり中教出版株式会社から出た国語教科書のそれである。時枝博士編の中学校の国語教科書『国語総合編中学校』を見ると、『一年上』(昭和三十年)の最初の単元ことばと生活には、博士の筆に成る「『ことば』と生活」という文章が載っている。これは次に引くような「です・ます体」で書かれた短い文章である。
《「ことば」は私たちにとっていちばん身近なものの一つです。道を歩いたり、食事をしたりするのと同じように、私たちは「ことば」を毎日繰り返して使っています。それだけにかえって私たちは、「ことば」が私たちの生活と深いつながりを持ち、また、私たちの生活の中で大切な役目を果していることを忘れがちです。工場で物が生産され、市場で物が売買され、学校で知識や技能が学習されるとき、「ことば」がどのような役目を果しているかを、考えてみましよう。私たちの生活にとって「ことば」がどんなに大切かということは、「ことば」のない生活を想像してみればわかります。
このように「ことば」は私たちの生活にとって非常に大切なものなのですが、しかし「ことば」の使い方がそれほどむずかしいとはあまり考えられていません。私たちは小さいときからいつのまにか「ことば」を覚え、そうして友だちと遊び、本も読み、また買い物もしてきたのです。しかし、時には、本を読むことや、手紙を書くことや、人の前で話をすることなどを、むずかしいと思ったことはありませんか。むずかしいことを、やさしくするにはどうしたらよいか。何をどう勉強し、学習すれば、本も読め、話もできるようになるか、それらを考えたとき、皆さんの国語の学習が始まるのです。
ある人が、いちばんやさしい「ことば」は何かと尋ねられて、それは、『はい』という「ことば」だと答えました。それなら、いちばんむずかしい「ことば」は何かと尋ねられて、それも、『はい』という「ことば」だと答えたという話があります。『はい』という「ことば」が、いちばんむずかしい「ことば」だということは、どういうことを教えているのか、考えてみましょう。
「ことば」が正しく使えなかったり、「ことば」を読みちがえたり、聞きちがえたりするのは、汽車や電車で、交通信号を誤るようなものです。交通信号を誤れば、危険なことが起るように、「ことば」のまちがいから、人と仲が悪くなったり、人に迷惑をかけたり、大事な用が足せなかったりすることが起ります。そのような誤りは、交通信号の誤りの場合とちがって、たいてい知らない間におかして、そのまま過ぎてしまうことが多いものです。交通規則を守ることが大切なように、「ことば」の規則や習慣を守ることに、細心の注意を払うようにし心がけましょう。
私たちは、知識や文学のたくさんの宝庫を持っています。そして、「ことば」は、その宝庫を開くかぎのようなものですから、どの民族でも、どの社会でも、自分の「ことば」を正しい「ことば」、美しい「ことば」に育てるように努力しています。皆さんは、国語の学習を通じて、そのかぎを自分のものにすることができるのです。》
これは読まれるように中学生たちの生活に即してことばの役目をわかりやすく述べている。これが『国語総合編中学校一年上』のはじめに置かれているので、この「『ことば』と生活」によって新しく中学校にはいった生徒たちにことばについて考えさせようとするのであろうが、そこには【研究と練習】として、
一 私たちの身近な生活で、「ことば」が大切な役目を果している例をいくつかあげてみよう。
二 「ことば」がなかったとしたら、どんなことになるか、話し合ってみよう。
三 必要な本がすらすら読めなかったり、人とうまく話ができなかったりすることがあるのはなぜだろう。
四 どんなことを学習すれば、それがりっぱにできるようになるか、考えてみよう。
五 「あしたまでに、これをやってきてください。」「きみもいっしょに行きませんか。」などと言われたとき、いつでも簡単に『はい』と答えることができるだろうか。
六 「ことば」の誤りが、交通信号の誤りの場合とちがうというのは、どんなことだろう。
七 「ことば」は、その宝庫を開くかぎのようなものです、というのはどんな意味か、話し合ってみよう。
というような設問が付されている。【以下、次回】