◎従来の国語史研究は口語史中心(時枝誠記)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十六 国語史研究」を紹介している。本日は、その四回目。
このように時枝博士は国語史研究において新しい考え方をうち出されたが、これによって当然国語史研究への反省が見られるようになり、やがて国語史研究にも新しい発展が見られることになるのであった。その最たるものが築島裕〈ツキシマ・ヒロシ〉博士が東京大学出版会から出されたUP選書の『国語の歴史』(昭和五十二年)であると私は思う。ここで再び「国語史研究の一構想」〔一九四九〕という論文を見ると、そこでは時枝博士が従来の口語史中心の立場や文献をその口語史編述の史料としてだけ見る立場が批判され、文語史研究が口語史研究の下風〈カフウ〉に置かれてはならないことを強調されている。ところで、築島博士は国語学者で訓点研究の第一人者であるが、多くの訓点資料を解明していかれるうちに従前の口語史料中心の単純な国語史観から立体的に口語プラス文語の史料を包含した国語史観を構成していくことが、今後の一つの大きな研究課題になるであろうと考えられるようになる。これはおそらく時枝博士の国語史研究の考え方に影響されるところが多かったのであろう。築島博士の『国語の歴史』の第十章文法史研究の課題を見ると、たとえば、口語の歴史で文法の面を見ても普通は上代、中古、中世、近世、現代というふうに時代区分をするが、文語の歴史という見方を導入した場合は、この区分とは異なった時代区分が可能なのではないかとして、次のように説かれるのである。
《しかし、国語史の中に、文語の歴史をも考慮に入れるとなると、文法史の区分についても、以上のものとは若干異った考え方が成立つと思われる。口語中心の場合には、上代語→中古語→中世語→近世語というようにいわば連鎖的に時代と共に変遷して行くのであるが、文語中心の場合には、前の時代から継承した形はそのまま存在して、その上に更にその時代の新しい形を重ねるという、いわば重層的に複雑化して行くという特徴がある。これは主として、平安時代の末、院政時代(十二世紀)以後について見られる現象である。即ち、その頃から平安中期の和歌(三代集など)や物語(源氏物語など)の言語が規範として行われ、これが既に文語を形成したが、鎌倉時代に入ると、それらは依然として同じ状態で伝承された上に、更に、僧侶の法語、伝記、戦記文学、説話文学などにおいては、当時の口語的要素が加えられた新しい一種の文語が形成された。これらの中には漢文訓読語の要素も加味されているため「和漢混淆文」とも呼ばれるが、この種の文体は更に室町時代以後にも伝えられて行く。そして室町時代以後には更に謡曲の類、キリシタン文献などに見られるように、中世末期の口語要素を加えた新しい一種の文語が創り出される。近世江戸時代に入ると、浮世草子や浄瑠璃など、劇文学を中心とする一種の新しい文語が発生し、ここでも又一時期を画するようである。一方、公用の文章(法令文や公文書など) は、古く律令体制の時代には正式の漢文であったが、中世の武家政治の時代から、東鑑体と称する日本化した漢文が実質的に中心となり(「東鑑【あずまかがみ】」や「御成敗式目【ごせいばいしきもく】」など)これが近世末まで伝承される(その間に若干の歴史的変遷もあるが。明治維新に当って、これらの漢文を廃して、片仮名交り文の文語体が採用される(明治欽定憲法)が、これが第二次世界大戦の後まで続き、戦後、平仮名交り文の口語体に変じて現在に及んでいる。明治初期以降は、言文一致運動の勃興によって、口語文の勢力が徐々に拡大され、遂に戦後に至って文語文を殆ど圧倒したともいえる状態に至った。》
時枝博士の国語史研究で博士がいわれるように、従来の国語史研究の一つの重要な性格と考えられることは考察の対象が国語の史的変遷の全体にあったのではなく、国語史の中でとくに口語の歴史がその中心になっていたことである。このことは口語が最も自然な真の言語であり、文語は人間の生得のものでない、人為的なものであって、言語学の真の対象とはなりえないものであるとする、ヨーロッパ言語学の考え方にもとづくものである。このような口語を優位な研究対象とする考え方にしたがって、明治以後の国語研究も自然口語の研究に力を注ぐようになって、国語史すなわち口語史であるということがおおかたの常識になったのである。このようにして時枝博士は文語史の研究の必要性を説かれたが、これは構想を示されただけで十分研究されずにおわった。それを受けて築島博士は種々複雑な資料をこのように国語史の中に組み込んで考察すべきであるとされたのである。
このように述べて築島博士はこれらの諸現象から文語史を加味した時代区分として、奈良時代(八世紀)、平安時代前期(九~十世紀)、平安時代後期(十一~十二世紀)、鎌倉・南北朝時代(十三~十四世紀)、室町時代(十五~十六世紀)、江戸時代(十七~十九世紀前半)、明治大正昭和(戦前)時代(十九世紀後半~二十世紀前半)、昭和(戦後)時代(二十世紀後半)の八つに分ける考え方もできると説いておられる。これは興味深い時代区分といえよう。【以下、次回】