◎言語は、人間の表現、理解の行為である(時枝誠記)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その三回目。
これは単元文学の研究の中であるから、言語と文学との関わりを考えさせようというのであろうが、生徒たちに【研究と練習】として、
《一 筆者が読者に何を考えさせようとしているか、文面を追って読み取ってみよう。
二 ことばがなかったならば、どうなるであろうかということについて、日常生活の場合を例にとって話し合ってみよう。
三 「ことばのない世界は、もっと暗い、もっと孤独な世界にちがいない。」ということは、どのような事実を言ったことか、考えてみよう。
四 ことばが実用的機能を発揮するには、その表現がどのように調整されなければならないかということは、この論文では、問題として提出されただけで終っている。その表現の調整ということにはどんなことがあるか、めいめい考えてみよう。》
といった設問を課しておられるのが興味深い。
さてこの「言語の機能」を読んで驚くことは中学校の三年生に対して、「言語は、人間の表現、理解の行為であり、物を言うこと、本を読むことが、すなわち言語である。」と正面から時枝博士の言語過程観を語り、そこから進んで言語が生活と密接に結びつき生活を成り立たせる機能を述べていることである。そして博士は言語と生活との機能的関係を詳しく説き言語に実用的(手段的)機能、社交的機能、鑑賞的機能の三つの機能があることを指摘される。ところで、この言語の三機能についてであるが、これについて時枝博士はさきに「文学研究における言語学派の立場とその方法」(「国語と国文学」昭和二十六年四月号)という論文で詳細に説かれたことがあり、この時期東京大学文学部の「国語概説」の講義でもこうしたいわゆる国語学的でないことを講じておられたようである。この論文は今日国語学と国文学とは赤の他人のように遠くなっているが、もう一度近世国学のありようを思い出す必要があるというふうに出発し、言語過程観の立場から国語学は決して国文学の下部であってはならないという。そして大胆にも博士は文学は言語そのものであり、文学は言語以外の何ものでもないとする考えを述べられるのである。このように文学は言語以外の何ものでもないとして、この論文の第三、四項で言語の機能が何であるかを明らかにし、言語の重要な機能として、実用性(手段性)、社交性、鑑賞性の三つの機能があげられるとされたのであった。
時枝博士は言語にはこのような三つの役目、機能があるとされるのであるが、次にそれらについて説明してみよう。まず実用的(手段的)機能というのは言語の最も根本的な機能であって、私たちがあらゆる生活を達成するためにその手段として表現されるもので言語はこの機能のゆえにあるといってもよいのである。たとえば万葉集、巻四〈マキノヨン〉の「夕闇は道たづたづし月待ちていませ我が背子その間にも見む」という歌は、大宅女が愛する男性を少しでも長く引き留めておきたいという切々とした気持を歌ったものである。この歌を聞いた男性は単に鑑賞するのではなく、彼女のもとに月の出を待ちとどまるであろう。そうするとこの歌は基本的に切実な実用性を持っていて、その手段として歌ったと解してよいのである。次は社交的機能であるが、これは人が他人と向き合っている際何も話をしないと気づまりなので、何か話題を見つけて話をしようとする。また客を招いて共に食事をし、そうすることによって主客の感情を和げ〈ヤワラゲ〉その雰囲気を楽もうとする。しかし、言語の社会性はこのような日常的なことだけではなく、文学にもあって、古今集における賀歌はそうした例である。次に鑑賞的機能であるが、これは言語がその本来の機能である実用性以外に表現それ自身が私たちの美醜、快不快の対象になるような機能をいう。たとえば万葉集、巻二〈マキノニ〉の「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」という歌は本来鑑賞されるべきものとしてあるのではない。この歌は恋をしている磐姫皇后〈イワノヒメノオオキサキ〉があなたの旅は日数が重なった、迎えにいこうかひたすら待とうかと歌っているのであるが、こうした実用性と共に表現そのものの美醜快不快も問われている。それがより美であり快であるならばその実用性もより発揮されるわけである。【以下、次回】