礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記のいう言語の共感的機能とは

2020-10-27 01:37:15 | コラムと名言

◎時枝誠記のいう言語の共感的機能とは

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その四回目。

 続いて中教出版株式会社から出ている時枝博士の高等学校の国語教科書を見ていくと、『国語総合編高等学校二』(昭和三十一年)に単元言葉の研究として「言語の機能」という文章を書いておられる。さきの中学校のそれの「言語の機能」という文章の三つの機能は言語生活からただちに進んで言語の機能を述べたのであるが、これは角度をかえて話し言葉、書き言葉の機能を説きそこから言語が生活に対してどのような機能を持つかを説いていられる。時枝博士は言語は人間の表現、理解の行為であり、その中に音声を媒材とするものと文字を媒材とするものとの二つの区別を考え、音声を媒材とするものが話し言葉といわれるものであり、文字を媒材とするものが書き言葉といわれるものであるとされて、音声を媒材とする話し言葉は話す行為としての話し言葉と聞く行為としての話し言葉に、文字を媒材とする書き言葉は書く行為としての書き言葉と読む行為としての書き言葉に分けられる。それをわかりやすい表にすると、

【表、略】

というょうになるが、その上で博士は話し言葉と書き言葉の機能上の相違を述べ、次に話し言葉と書き言葉の表現技術の特質を考え、話し言葉と書き言葉とにはその下にどういう形態があるかを説き、言語の機能に及ばれる。次に引くのは博士の「言語の機能」という文章の全体ではなく、おわり近いその生活に対する言語の機能の項である。
《以上、私は、主として「話し言葉」と「書き言葉」の機能上の相違を明らかにしてきたのであるが、これをひっくるめて、言語が、生活に対してどのような機能を持っているかを見ると、大体これを三つに分けることができる。すなわち、
 一、実用的(手段的)機能
 二、社交的機能 
 三、鑑賞的機能
 言語の根本的機能は、第一の実用的(手段的)機能である。およそ一切の言語表現は、常になんらかの他の生活の手段として成立するものである。市場での会話は、食料品を求めるためであって、それは食生活の手段として表現される。掲示や広告が実用的であり、手段的であることは、だれでも認めることができることであるが、いわゆる文学の範疇【はんちゆう】に入れられている小説・詩歌のごときものをとってみても、それが読者に新しい自然観、人生観、社会観を植え付けるものであるとするならば、それはすでに実用的(手段的)機能を持ったものと見なければならない。その点、文学が芸術であるといわれる時と、絵画や彫刻が芸術であるといわれる時とは、よほど異なると見なければならないのである。偉大な文学は、ただそれが鑑賞されるだけにとどまらず、あすの生活のための精神的な糧【かて】となるものであるところに、大きな意義があるのである。
 社交的機能というのは、言語によって、会話の当事者の感情が融和されるような場合をいうのである。音楽についてみても、音楽会で演奏される音楽は、聴衆の前に、鑑賞の対象として与えられるのであるが、宴会場や葬儀場で演奏される音楽は、鑑賞の対象ではなくて、それによって、参会者の気分を楽しませ、あるいは、故人を追憶させるためのものである。われわれの日々のあいさつは、それが、ある生活の手段となるよりも、それによって、相互の気分をあたためることに意義があるのである。このように見てくると、われわれの日々の会話には、それによって知識を交換したり、他の生活の手段にするということと何の関係もない、全く社交的な意味において交換される会話が、いかに多いかを知るのである。吉凶の際の祝辞、弔辞のごときにも、多分にそのような機能があるのである。言語のこのような機能も、社会生活を営む上に、きわめて大切なことである。
 次に、鑑賞的機能というのは、表現そのものが、われわれに快不快の感情を刺激するような場合の機能である。すべて言語表現は、表現それ自体は手段的のものであるから、その機能が逹成されるならば、表現そのものは、もはや問題がなくなるのである。しかしながら、われわれは、言語をその実用的手段的機能において行為しながら、なおそれと同時に、その手段である言語行為それ自体の美醜、快不快を問題にすることが多い。それはあたかも、目的地に到着するためには、汽車を利用しようが飛行機に乗ろうが、ともかくも目的地に着けばよいはずであるが、同時にわれわれは途中の旅行の快適であることを選ぶようなものである。たとえば、人の話を聞いていても、その発音が明晰であり、抑揚が適切であるならば、ちょうどよく修理の行き届いた軌道の上を走る汽車に乗ったと同じような快適な気持を味わうことができる。言語は、音楽と違って、ただ音声が美しいというだけでは、その機能が果されないので、個々の音声が集まって、一定の意味が喚起される必要がある。もし、音声の流れが、われわれに何の抵抗も感じさせることなく、思想を喚起するならば、いっそう、われわれはそこに快感を味わうことができるのである。「話し言葉」でも「書き言葉」でも、それが聞くに値し、読むに堪えるということは、それらの表現が、鑑賞的機能を持っているからである。しかし、一般には、言語の鑑賞的機能は、実用的機能の陰に隠れて、特に関心の対象にならない場合が多い。鑑賞的機能が増大してくる時、われわれは、そこに文学を意識するようになる。》
 このように説いて、時枝博士は言語表現はそれぞれその機能が違うから、表現者はその機能が十分に発揮されるように表現を工夫することが大切なこととなり、それが話し言葉、書き言葉の種々な形態を成り立たせることにもなると結ばれるのである。
 ところで、時枝博士が言語の機能を説かれるのはただ中学校や高等学校の国語教科書だけではない。この時代の博士の著書、たとえば『国語学原論続篇』(昭和三十年)の第二篇各論第二章言語の機能にも、さらにまた『現代の国語学』(昭和三十一年)の第二部言語過程説に基づく国語学第五章言語の機能にも、言語をその機能的関係においてとらえるということは自分の言語過程説の重要な思想であるとして、くわしく説いていられるのである。ただ『現代の国語学』のそれで興味深いのは他がすべて言語の諸機能として三機能をあげているのに対して、この書だけが実用的、共感的、社交的、鑑賞的諸機能の四機能を説いていることである。ではその共感的機能とはどういう機能をいうのであろうか。次に博士の述べられるのを写してみる。
《二の共感的機能といふのは、聞手を同調者の立場に置かうとする表現で、多くの「話し」が、このやうな目的で語られる。これらは、相手を説得するのでもなく、相手を行動に駆り立てるのでもなく、話手が、自分の経験を語ることによつて、相手を同じ感情(喜び、悲しみ、恐怖等)に誘ひ込めばよいのである。未経験者である聞手に、同じやうな感情を起こさせるには、そのやうな感情の原因となつた素材的事物を、聞手に再生させる必要がある。素材の描写、誇張といふやうなことが、表現の技術として考へられる。このやうな機能は、言語における素材の表現によつて達成されるので、文学的作品の中にも、このやうな機能を目ざしたものが、少からずある。或は、文学作品の重要な機能といへるかも知れない。これが時枝博士のいう共感的機能である。【以下、次回】

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