◎言語には三つの機能がある(時枝誠記)
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その二回目。
二
さて同じ『国語総合編中学校』のそのさきを見ていくと、『三年上』(昭和三十年)の単元文学の研究にやはり時枝誠記博士の「言語の機能――言語と生活との関係――」という文章が載っている。これは次に引くような「である体」で書かれた少し長い文章である。
《言語は、人間の表現、理解の行為であり、物を言うこと、本を読むことが、すなわち言語である。このように、言語を考えると、言語は、散歩をしたり、食事をしたりするのと同様に、人間の生活の一部分であると見ることができる。そこで、物を言ったり、本を読んだりすることを、言語生活と名づける。このような言語生活は、衣食住の生活や、学校での学習生活や、職場での生活などと並んで、私たちの一日の生活の大きな部分を占めている。それでは、この言語生活と名づけられる私たちの生活は、他のいろいろな生活とどんなふうに関連しているのであろうか、あるいは、何も関連がないのであろうか。このことは、言語について考える場合に、大切な問題になってくる。
この問題を考えるには、もし、私たちの生活に、言語がなかったとしたならば、どういうことになるかを考えてみればよい。食事をするのに必要な食料品を買うために、店屋に行くとする。ほしいものがあっても、ことばがないとすれば、「肉を百匁ください。」ともいうことができないわけであるから、店に並んでいるものを、ただ黙って取ってくるか、それに書かれているねだんの通りに払って、品物を持ってくるかするよりほかに方法がないのであるが、ことばのない世界には、ねだんを書き表わすこともないであろうから、どうしてよいか困るにちがいない。また、たとえば、病気になって、医者にみてもらうとしても、どこが痛いか、気分がどんなかも説明できないのであるから、薬をもらったり、手当のしかたをきいたりするわけにもいかない。手まねや身ぶりで、やっと用が足せたとしても、医者が、薬を調合してくれるかどうかはわからない。ことばのない世界の医者は、きっと、必要な薬を仕入れることもしていないにちがいないのである。こうして、人間も犬やねこのように、日当りのよいところに横になって、静かに病気のなおるのをじいっと待つよりほかに方法がないのである。また、たとえば、雨の上がった夕方、外に出て見たら、空には美しい虹が出ていた。「不思議だな。」「あれはなんだろう。」と思っても、だれに尋ねることもできない。図書館に行って、本をしらべてみようかと思っても、ことばのない世界に、物理学の本など、あろうはずはない。
ことばのない世界など、考えればゆううつになるばかりである。啞【おし】や、盲の人たちは、私たちと同じようなことばは持っていなくても、手ぶりや点字で、私たちのことばと同じように用を足しているのであるから、ことばのない世界に住んでいるとはいえないのである。ことばのない世界は、もっと暗い、もっと孤独な世界にちがいないのである。
こう考えてくると、言語は、人間の世界にすばらしい働き、機能を持っていることが想像できる。人間は、生きていくために、動物のように、ただひとりで食物を捜し求めて歩きまわるのではなく、食物を供給する人がいて、必要なものを私たちに売ってくれて、それによって、私たちは生活することができるのであるが、その食物は、また、多くの人の協力によって、畑で耕され、工場で生産される。その協力は、何によってできるかといえば、全く言語の力である。人間が、部署を定め、仕事を分担し、製品を運搬し、売買するのは、社会の大きな組織であるが、その組織をつくり出すものは、言語であるといってよいのである。このようにして、言語は、生活と密接に結びつき、生活を成り立たせる機能を持っているのである。
今日の社会は、物質文明のたまものである電気や機械によって運転され、精神文化の遺産である学問、芸術によってささえられているのであるが、それらの文明、文化は、今日突如としてできあがったものではなく、遠い昔からの人間の努力の蓄積の上に開花したものである。これらの蓄積が可能であるということも、人間が言語を持っているからにほかならないのであって、どのような発明も、どんな思想も、これをのちの時代に伝える言語の媒介がなければ、その人一代で終ってしまうのである。動物が文化を持たないのは、彼らが言語を持たないことがその唯一の理由であるといってよいのである。このように、言語が、私たちの生活を成り立たせる機能、言語が、生活の手段として行為される機能を、言語の実用的あるいは手段的機能と名づけることができる。
私たちは、言語を、多くの場合に、生活目的を実現するために用いて、品物を注文したり、疑問を人に問いただしたりするのであるが、そのほかに、私たちは、実用的意味を離れて、人とことばをかわすことに、興味を持っている。それは、ただ、ことばをかわすことに興味があるのでなく、ことばをかわすことによって、自分と人との間に、ある結びつきができ、お互に心が通うと考えているのである。朝起きて、隣りの人と会ったとき、「お早うございます。」ということばをかわすことによって、お互の間に、あたたかい心が通うということは、だれでも経験することである。もちろん、この場合、ことばをかわさなくても、軽く会釈しただけでも、お互の心は結ばれるのであるが、ことばは、端的にその用を果してくれるのである。このようにして、私たちの社会には、朝晩のあいさつ、時候のあいさつ、吉凶【きつきよう】の際のことば、その他、その場合場合のお世辞などが発達してきたのである。これは、大にしては、国と国との間にも、団体と団体との間にもあることで、その根本は、人間は、お互に協調しなければ、その生存を全うすることができないということから出てくることである。「口もきかない。」ということがあるが、ことばもかけないということは、お互の感情が、疎隔してしまったことで、もし、その社会のだれからもことばをかけられなくなれば、もはや、その社会から追放されたも同然である。不和の間を仲なおりさせることを、「口をきく。」というが、言語が人間関係の構成に重要な役割を果すことを意味していると見てよいであろう。このように、言語が、私たちのお互の感情を融和させ、言語が、人間相互の結びつきとして行為される機能を、言語の社交的機能と名づけることができる。
人間が、まだ、幸福につけ、不幸につけ、すべてを神にまかせ、その恩恵を祈願していた時代には、神に申し上げることばが、人間生活に重要な意味を持っていた。従って、その表現には、非常な苦心が払われた。神は、そのすぐれた表現をめでて、恩恵をたれたもうと考えられていたからである。祝詞【のりと】はすなわちそれである。神に申し上げることばばかりではない。人間同士の間でも、「物も言いようで角が立つ。」といわれているように、表現の巧拙から受ける快不快の感情は、そのことばの機能にも関係することで、言い方が悪かったために、実現すべきことも、実現せずに終ることは、決して珍しいことではない。表現をめでる気持は、神だけではないのである。言語が、その本来の機能である実用性以外に、言語それ自身が、私たちの快不快の感情の対象になるような機能を、言語の鑑賞的機能と名づけることができる。
以上、私は、言語の機能を、実用的(手段的)、社交的、鑑賞的の三つに分けて観察してきたのであるが、この三つの機能は、多くの場合に併存しているのが普通で、ただ、ある表現については、実用的機能が主になり、また、ある表現については、社交的機能あるいは鑑賞的機能が主になっているというような相違が認められるのである。そして、それぞれの機能が、遺憾なく発揮されるには、表現がどのように調整されなければならないかということが、次の問題になってくるのであるが、ここでは、言語に三つの機能があることを指摘するにとどめておこう。》【以下、次回】