礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記博士の国語史研究について書こうと思う(根来司)

2020-10-17 01:19:49 | コラムと名言

◎時枝誠記博士の国語史研究について書こうと思う(根来司)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介に戻る。
 本日以降は、「第十六 国語史研究」を紹介してみたい。なお、時枝誠記は、引用されている文章の中で、「脅迫観念」という言葉を用いているが、言うまでもなくこれは、「強迫観念」の誤記である。

  第十六 国 語 史 研 究

     一
 ここでは時枝誠記〈トキエダ・モトキ〉博士の国語史研究について書こうと思うが、気がついてみると時枝博士は自分の国語史研究については講義や講演でよく述べられ、論文や著書にも詳しく説いていられる。するとこの章はよほどうまく書かないとましな章にならないと思う。はじめに博士の講演や講義をのぞいてみると、まず「言語過程説の成立とその展開」(「国語学」第六十集、昭和四十年三月、特集国語学会創立二十周年号)がある。これは昭和三十九年〔一九六四〕十一月八日に行われた 国語学会創立二十周年の記念溝演で、このあと博士は二十年の長きにわたって勤めた国語学会代表理事をやめられた。ここでは言語過程説の展開を述べるのに言語過程説を主にして、それと正統国語学との触れ合いを説いていかれるのであるが、博士がどのようにして国語史研究と取り組むことになったかについて、
《私は、研究のそもそもの出発点から、過程説理論の見通しを立てることに忙しく、この明治以来の国語研究の重要な課題である国語の歴史的研究とは、全く無縁な道を歩いて来ました。私が、中央学界とはかけ離れた朝鮮に在住してゐたといふことも、幸か不幸か、この正統国語学の大道に無関心でゐられた大きな理由であつたと思ひます。私が、国語史研究といふものに、関心を持ち始めたのは、『国語学原論』が刊行され(昭和十六年十二月)、東京に転住することが実現するやうになつた頃(同十八年五月)であります。その頃、橋本先生に差上げた手紙の中に、〈私も、久しく御無沙汰してゐた国語史研究に入つて行きたい〉といふやうな意味のことを申述べ、『国語学論集』(橋本博士還暦記念論集)に、「言語学と言語史学との関係」と題する論文を寄稿しました。しかし、過程説理論即ち言語における主体的立場を重視する理論においては、いはゆる国語史研究は、所詮、隣家に咲きほこる花園を眺める以上のものではありませんでした。昭和二十四年の「国語史研究の一構想」(「国語と国文学」二六巻一〇・一一号)を契機として、私は、国語史研究に代るものとして、言語生活史を提唱するやうになりました。いはゆる国語史研究のやうな問題の取上げ方は、言語の系統や系図調べを主要な研究課題とした近代言語学においては、重要な課題であったかも知れませんが、このやうな研究が、歴史的研究の名に値するか否かについては、甚だ疑問に感ぜられるやうになりました。》
と述べていられる。これは読まれるようにそれこそ橋本進吉博士のいわゆる正統国語史に疑いをさしはさみ、言語生活史を提唱されている。そういえば時枝博士にはそれよりさき東京大学を定年退官される際最終講義として、「私の 国語学研究(最終講義)――過去と将来――」(「国語と国文学」昭和四十三年二月号、時枝誠記博士追悼)がある。そこでも自分のし残した研究に国語史研究があるといって、
《それから、なほ残されてをります問題は、岩波全書で出しました「日本文法文語篇」といふのがございます。 あれは、中のとびらには、上代・中古といふ副題がついて居ります通り、文語の全面を扱つたものではなくて、上代・中古だけに限定されて居ります。これは、書店からの要望で、さういふ名前に、つまり、上代・中古といふのをあまり目立たないやうにしてくれ、といふのです。これは日本文法の文語を全面的に扱つたものであるかのごとき印象を与へようといふことなのであります。私ははなはだ不満だつたのですけれども、こつそりと副題を上代・中古とし、従つて、近古・近世といふものは残されて居るのだといふことを、そこに示して居るわけです。さう言つた以上は、残したものをやらなくてはいけないのですが、これは全然やつて居りません。私は、上代或いは中古ぐらゐまで、それから、最近は「平家」あたりを扱つて、幾分か近古に足を踏み入れて居るやうでありますが、それ以後、室町から近世にかけてのものは、まつたく扱って居りません。これを、どうしても扱は なければならないといふ貴任もまた、私の脅迫観念になつてしまふのですが、文章研究だけは、その脅迫観念を脱却しようとして、ともかくもまとめあげたのですが、文語文法のことは、一つの残された大きなことになつてしまひました。
 それからもう一つは、言語生活、つまり、国語の歴史に代るものとして、言語生活の歴史が、これはところどころで、筋書きとあらましだけを私が書きまして、まだ具体的な本論といふものは、一つも手を染めて居りません。これも脅迫観念にならなければ幸だと思つて居るのですが、主な私のし残したことは、さういふ問題であります。》
と述べられている。そういえば時枝博士は東京大学を昭和三十六年〔一九六一〕三月に定年退官されたのであるが、東京大学国語国文学会では博士の退官を記念してであろう、その前年「国語と国文学」が昭和三十五年〔一九六〇〕十月号として特集国語史はいかに記述すべきかを出している。そしてその巻頭論文として博士は「国語史研究と私の立場」を書かれている。その論文は、「私はこの小稿で、言語過程説の理論的射程の限界を験さう〈タメソウ〉とすると同時に、もつと楽しい国語史研究への登口〈ノボリグチ〉を探さうと努力した。ここに『楽しい』といふ限定修飾語をわざわざ冠らした〈カブラシタ〉のは、従来の国語史研究は、私には、暗闇の洞窟の中で行き当つた、堅いつめたい壁のやうな感じがする。それを突き破らうとする堅忍不抜の精神も大切かも知れないが、登口を適当に選ぶならば、もつと展望のきく、広い山野の愉快なハイキングコースのやうなものがあるに違ひない。リゴリズムが、学問の価値を保証するものにはならないと思つたからである。」というふうに書きはじめられて、みずからの言語過程説から導き出された言語生活史について説いていかれる。さらにまた「言語生活」が昭和三十九年〔一九六四〕三月に創刊百五十号記念として特集言語生活学を出しているが、時枝博士はこの号にも巻頭論文として「私の言語生活論・言語生活史論の構想」を書かれている。その論文には「私は、昭和三十六年四月、早稲田大学に転じた機会に、『言語生活史の研究』なる題目を掲げて、終生の研究課題としようとした。しかしこれは、実は、私にとつて画期的なことであると同時に、全く未知の分野であることを覚悟しなければならなかつたのである。従来、私は、国語学の理論構成にばかり、憂き身〈ウキミ〉をやつして来て、言語生活の基盤になつてゐる歴史的事実に対しては、盲目同様であつた。しかし私の研究課題は、否が応でも、歴史的事実に、私の目を向けさせるであらう。言語を、歴史と文化の相関の中に置いて考究する機会を与へてくれた言語過程説の理論に対して、私は感謝しなければならないと思つてゐる。」というように述べていられるが、たしかに博士はこの時期国語史研究に意欲を燃やしていられたらしく、同じ昭和三十六年十一月十二日に九州大学で開かれた国語学会公開講演会には「言語生活史研究の意義」と題して話をしておられるのである。【以下、次回】

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