◎ニュー・ディール政策の軍事化とケインズ主義者A・ハンセン
ルーズベルトのニュー・ディール政策については、以前、大間知啓輔(おおまち・けいすけ)著『国家独占資本主義論』(ミネルヴァ書房、一九六九)所収の論文「経済の慢性的軍事化」を読んで、大いに啓発されたことがある(この論文の初出は、一九六六年一〇月か)。
数日前、久しぶりに、この論文を読んでみた。明晰で説得力のある論理で、ルーズベルトのニュー・ディール政策が「軍事化」していった必然性を説いていた。やや長くなるが、重要と思われる部分を引用しておこう(九六~一〇一ページ)。
ニュー・ディール期には、独占的重工業、生産財産業の生産能力の過剰を処理する必要があったが、失業対策などの救済事業によるスペンデイング・ポリシィでは、これを処理できなかった。ところが、道路整備、治山治水、ダム・港湾の構築と補修などの公共事業は、鉄鋼やセメントなど独占的生産財、重工業製品の需要を喚起する。だがそれにしても、公共事業支出には、四つの限界がある。
第一に、公共事業は永続的でなく、市場創出は連続的ではない。道路や港湾にせよ、ひとたび建設を完了すれば、その消耗に長年月を要する。つぎつぎに新しい道路や港湾をつくるわけにはいかない。ムダな道路や港湾をつくることになる。納税者の負担で利用されない産業道路や港湾などの社会的生産手段をつくるわけにはいかない。
第二に、公共事業は、一国の生産力を高めるので、商品過剰や生産能力過剰を処理するには限界がある。治山治水のような公共事業であれば、電力や農産物の生産条件を社会的に改善する。産業道路や港湾であれば、企業の輸送費負担を軽減し、それだけ民間企業が本来の生産過程により多量の資本を投下することをうながす。公共事業支出が、右のような社会的生産手段の建設・保全のための支出でなく、公共住宅、公園のような社会的生活手段の建設.保全のための支出であれば、労働力を再生産するのに役立つ。いずれにしても一国の生産力を向上させる。公共事業支出は、一方で支出であるかぎりでは、有効需要を形成する。しかし、他方で社会的生産手段- 社会的生活手段の建設.保全であるかぎりでは生産や生産能力の拡大をうながす。この意味では、公共事業は商品資本や生産資本の過剰を処理するには限界がある。
第三に、公共事業は私的資本の投資領域をおかす。パオロ・シロス‐ラビーニ〔Parlo Sylos-Labini〕がいうように「生産的公共支出の大規模な増加は、経済学者がこれまで十分な注意を払わなかった深刻な政治的・機構的障害にぶつかる」。「ここでは、政府は私的分野に侵入し、影響を受ける利害関係者の範囲をはるかに越えた抵抗に直面せねばならぬ。すなわち、それはもっと広範な政治的意味をふくんだ問題である」。もともと生産と販売は私的資本の領域である。この領域を公共事業がおかせば、資本の抵抗にあう。たとえば、アメリカのTVAはテネシー河にダムを建設し、洪水を防ぎ、水運の改善と灌漑用水の利用をはかり、テネシー渓谷地帯の風土をかえ、住民の生活を向上させるという雄大な生産的公共事業であった。だがTVAによる安い電力供給は、電力独占資本の抵抗にあい、むしろ原子爆弾の製造に利用された。また公共住宅の建設は、政府自身が住宅を建てず、民間の建築業者に住宅を発注し、政府がそれを国民に貸す形をとれば、資本の抵抗はないとおもわれるかもしれない。だが、このばあいですら、アメリカでは、住宅貸付仲買業者という有力な集団の反対にあう。
第四に、政府支出の増加は、納税者の税負担を重くする。公共事業支出を公債収入でまかなうにしても、公債の元金、利子の支払いに税収をあてねばならぬ。公共事業支出が累積し、道路、港湾などの利用効率がおち、すすんでは私的資本の領域をおかす危険をもつとすれば、公共事業支出が納税者たる法人、個人の反対にあうのはみやすいことである。
軍事支出は軍需品とその関連生産財の市場を拡大する。この軍事支出は、右にみたような公共事業支出のもつ四つの障害がない。
第一に、軍需品の需要は継続的である。戦争という破壊行為で軍需品は消耗する。戦争がなくても、プロペラ機からジェット機へ、ジェット機からミサイル、ロケットへという各国の軍事技術の高度化競争で旧兵器は物理的に消耗するはるか以前に捨てられる。旧兵器は新兵器に急速にとってかわる。そして第二次大戦後、社会主義圏と資本主義圏の対立が激化したこと、いわゆる低開発国における工業化は、社会主義化の方向にそってのみおこないうる状況にあること、このために、反共帝国主義軍事同盟をむすんで、商品および資本の輸出市場を保全する必要があること、こうした理由でアメリカをはじめ国家独占資本主義国は軍事支出をふやさざるをえない。第二次大戦後は軍事支出の増加がほぼ慢性的となっている。
第二に、軍事支出は、公共事業支出とちがって、生産手段や生活手段をつくるものではない。そのかぎりでは生産力の拡大には役立たない。軍亊支出には、供給要因はなく、需要効果のみがある。だから、商品資本と生産資本の過剰を解決するのに軍事支出がもっとも有効だ。ハンセンは、軍事支出は能率を高めるのでも、効用をつくるのでもなく、有効需要のみをつくるので景気を刺激する、といっている。彼によれば、「政府支出は、(イ)効用をつくり、(ロ)能率を高めるほか、所得もつくる。実際、この後者の見地からいえば、(戦争支出のような)能率を高めるのでも、効用をつくるのでもない支出が完全に効果がある。だから、戦争は非常時中に雇用を増進するだけではなく、住宅建設やその他の投資領域に欠乏を積み重ねることにより、戦後の民間投資を刺激する。」アメリカのケインズ主義者ハンセン〔Alvin H. Hansen〕は、戦争支出という形でケインズ政策がおこなわれたことを如何の遠慮もなく認めている。
第三に、軍事支出は、公共事業支出とちがって私的資本の領域をおかさない。国防は、もともと国家の仕事だ。公共事業がしばしば私的資本の事業と競合するのにたいし、軍隊の維持、拡大は私的資本と競合しない。つぎに公共事業支出と同様、軍事支出は、それにともなう税負担増が、支出拡大の障害になるとおもわれるかもしれない。軍事支出は、この面ですら、公共事業支出にあった限界をつぎのように克服していく。
第四に、資本主義が体制的危機にあるなかで「愛国心」や「反共精神」を鼓吹して、軍事支出にたいする納税者の反対を緩和する。軍備拡張反対者に「国家にたいする反逆者」という烙印が押される。平和を要求する労働者階級の力が弱いところでは、この烙印が通用する。
アメリカの保守的な南部人で上院軍事委員会委員長であるリチャード・B・ラッセル〔Richard Brevard Russell, jr.〕議員は、公共事業支出と軍事支出にたいする態度のちがいを上院の議場でつぎのように告白している。「破壊の準備をすることには、建設的な目的のために努力するばあいよりも、ひとびとをして、金をつかうことにいい加減な態度をとらせるなにかがあります。なぜそうなるかはわかりません。しかし、わたくしは上院議員で、ほとんど三年間にわたってみてきたことを申しあげますが、ひとを殺し、ものを破壊し、都市を消し去り、大きな交通機関を消滅させるような兵器を買いいれることには、ひとびとをして、適当な住宅とか、人間の建康のことを考えるばあいほど、費用のことを細かく考えないようにさせるなにかがあります」。納税者代表、ラッセル上院議員のいう「なにか」は、何に由来するかは、公共事業支出と軍事支出をめぐる四条件(事業の継続性、生産力の形成にたいする性質、私的資本との競合性、徴税の難易)を検討してきたわれわれにはあきらかである。
以上みてきたように政府支出の拡大は、救済事業、公共事業という形でおこなわれるには障害があり、軍事支出へすすむ傾きがあった。そして現実にはファシズムに対抗する戦争によって、アメリカでは、救済支出、公共事業支出から軍事支出への本格的な転換がうながされた。
ここに、「アメリカのケインズ主義者ハンセン」の名前が上がっていることに注意したい。アメリカのニュー・ディール政策を理論的に支えていたのは、ケインズ主義経済学者のアルヴィン・ハンセンであった。そして彼の立場は、「戦争支出」という形によるニュー・ディール政策を容認するものであった。
大間知啓輔氏は、上記の文章において、ハンセンの主著『財政政策と景気循環』(Fiscal Policy and Business Cycles,1941)を引いている。
一昨日および昨日のブログで、『アメリカ資本主義の分析』(東洋経済新報社、一九四七)という本に言及した。著者の小原敬士は、同書でハンセンの理論に言及している。当然、小原は、ハンセンの『財政政策と景気循環』を読んでいたと思う。にもかかわらず小原は、ハンセンの理論が、「戦争支出」という形によるニュー・ディール政策を容認するものだったことに触れていない。なぜ小原は、ハンセンの理論が、ルーズベルト大統領の「政策」に影響を与えた可能性を示唆しなかったのだろうか。――いま、このあたりが、少し気になっている。
明日は、話を時枝誠記の言語過程説に戻す。