礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

演出上の冒険をやってみたかった(黒澤明)

2020-10-05 03:37:25 | コラムと名言

◎演出上の冒険をやってみたかった(黒澤明)

 黒澤明『蝦蟇の油』(岩波現代新書、二〇〇一)から、映画『素晴らしき日曜日』について述べているところを紹介している。本日は、その二回目。
 なお、本日、紹介する部分(二八九~二九一ページ)には、いわゆるネタバレが含まれているので、その点を、あらかじめお断りしておく。

 それは、貧しい男女が誰もいない音楽堂で、幻の「未完成交響曲」を聞く場面の事だ。
 男が誰もいない舞台でタクトを振る。
 勿論、音が聞えて来る筈はない。
 女がスクリーンから、映画の原則に反して、映画を見ている観客に話しかける。
 皆さん、この私達が可哀そうだと思ったら、どうか拍手をして下さい。皆さんが拍手して下されば、きっと私達の耳に音楽が聞えて来るでしょう。
 観客が拍手する。
 そして、映画の中の男が、誰もいない舞台で、タクトを振ると「未完成」が聞えてくる。
 私は、ここで、映画の中の人物が直接観客に話しかけるという新しい手法で、観客にこの映画に参加してもらいたかったのだ。
 観客は映画を見る時、多かれ少かれ、その映画に参加している。
 その映画から受けた感動で、我を忘れて参加するのである。
 しかし、それは、観客の心の中の事で、行動に及ぶのは思わず拍手する位の事だ。
 私は、「素晴らしき日曜日」のこのシーンで、その観客が思わず拍手するという行動を映画の展開に直接結びつけて、観客を完全に映画の登場人物にしてしまいたかったのだ。
 この私の考えに対して植草〔圭之助〕は、誰もいない筈の音楽堂から拍手が聞えて来る、主人公の二人が見ると、その暗い客席のあちらこちらに、主人公の二人に似た境遇の恋人達が坐って居て、それが拍手している、ということにしたいと云った。
 植草らしい設定で、それはそれで面白い、と思ったが、私は自分の案を主張してゆずらなかった。これは、何も植草が云うように、植草と私と本質的に全く違う人間だから、なぞという深刻な理由によるものではない。
 私は、ただ、自分の案で演出上の冒険をやってみたかっただけである。
(この演出上の冒険は、日本では成功しなかった。日本の観客は、なかなか拍手をしてくれないから、うまくゆかなかった。しかし、パリでは成功した。フランスの観客は、熱狂的に拍手してくれたから、その拍手の音につれて、誰もいない音楽堂の舞台からオーケストラのチューニングの音が聞えて来た時は、異様な感動が湧いて来た)。

【中略】

 この二人の主役は、何処にでもいるような二人という設定であったが、その点では実に ぴったりであった。
 だから、私は、今思うと、この二人は私の映画の主人公というより、敗戦直後の新宿で偶然出会って親しく話し合った男女のような気がしてならない。【以下、次回】

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