◎橋本進吉、新たに文節という概念を唱える
根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介に戻る。
本日以降は、「第十四 日本文法論」を紹介してみたい。
第十四 日 本 文 法 論
一
橋本進吉博士の『国語法要説』が明治書院の「国語科学講座」の一冊として出たのは昭和九年〔一九三四〕十二月であった。それから数年後時枝誠記〈モトキ〉博士は昭和十二年〔一九三七〕三月の「文学」に「文の解釈上より見た助詞助動詞」と題して、主に橋本博士の文法論を取り上げてこれを批判の対象としつつ言語過程説にもとづく文法論の基礎観念を世に問われた。その後、時枝博士の文法体系は昭和十六年〔一九四一〕十二月に出た『国語学原論』の中の文法論で体系を整え、岩波全書の『日本文法口語篇』(昭和二十五年)、『日本文法文語篇』(昭和二十九年)でその全貌が明らかになったのである。橋本博士の文法論の文節論に対立する、時枝博士の文法論の根本をなす詞辞論は近代の日本文法論の論争でよい意味で真剣で勝負をした感があるので、ここでは時枝博士の文法論について述べてみたいと思う。
二
はじめに橋本進吉博士の文法論の中心をなす文節論はどのようにしてなったか、私はこのことから考えていこうと思う。いま橋本博士の著作集『国語法研究』(昭和二十三年)を詳しく読むと、橋本博士が東京大学において「日本文法論」(昭和四年度)、「国語法概論」(昭和七年度)などを講じて、国文法の体系についての見解を明らかにされたが、『国語法要説』はこれらの講義案をもとにして整理されたものであり、博士の文法論の基本をなす文節論もすでに「日本文法論」の中に取り上げておられ、たしかに『国語法要説』には一文と語と「文節」の項にその文節論が展開されているのである。
ところで、このように述べて来て思い浮かぶのは、橋本博士が昭和九年〔一九三四〕八月十五日から八月十九日まで五日間、信濃木崎夏季大学第三部において文法の講義をされた、その講義を筆録した小冊子が一年経って北安曇〈キタアズミ〉教育会から『文法論』(昭和十年八月)として出されていることである。それを読むと橋本博士が最初に、自分の学問観、教育観を述べられて、「私がこれから話してみようとするものは、これ迄の人々のものを参考にして自分の考を話してみたいの〔で〕ある。これは一つの試みに過ぎない。私自身から言つて、充分の試験済みのものでなく試みである。私はこれまで、自分のものを世間に発表するのに、充分の責任を負ふべきものでなくてはならないと考へてゐた。それが必要と思ふ。 大学の講座を受け持つようになつて幾分考が変つた。それは、大学は研究が必要である。大学の講義として自分で試験済みのことを話すことが出来れば結構だが、学生に金科玉条のものを与へて、さう考へさせることはどうかと思ふ。それよりは、どういふ過程によつて、どういふふうにして成り立つたかを考へさせることも必要である。研究の指導をする上に、自分の充分の結果を得たもののみでなく、自身としてかうすればどうかといふ問題を与へるのが必要である。」といい、ここでは自分の未熟な試験済みでないものを話すといわれている。橋本博士のこのなまの学問観、教育観は興味深いが、それよりもいまは文節について講じられるところを見たいと思う。
【引用、略】
ここに私は橋本博士が信濃木崎夏季大学で中学校、高等女学校の教師に講じられた『文法論』の文節の項を長く引いた。それというのも橋本博士はこの時期さきに述べた『国語法要説』を書かれており、この小冊子に述べられるところは重要と考えたからである。いま『国語法要説』を開いて一文と語と「文節」の項の文節について説かれた個所をここに引いたそれと比べてみると、『文法論』の文節の項はただそれが口語調になり平易になっているだけで述べるところはよく似通っている。文節の特徴を四か条述べておられるのなどもそのままである。音韻に主要な研究業績を出された橋本博士であるから、文法でも一続きで発音されるとか切れるとかイントネーションがあるとか、このような外形から規定をして文節も息の切れ目であるとされたのである。ところで、この辺の事情は大野晋〈ススム〉博士の『文節』について」(「解釈と鑑賞」昭和二十七年十二月号、特集日本文法の整理)という文章を見ると、よく書かれていて興味深いのである。大野博士によると大学の卒業論文に係り結びを扱われた橋本博士は続いて大学院では文法の研究をされたが、のち国語音韻史の研究にうち込まれるようになる。大正末年にようやく国語音韻史の大本を組み立てられて、「そのころから博士は、博士の精魂を傾けられたこの音韻研究が博士の初志であつた文法研究と何等かの点で連絡することはあるまいかといふ点に考察を向けられてゐるやうである。即ちその頃、大学の学生であつた時枝誠記博士に向つて、しきりに文法論の構想を語り、後の文節論の萌芽と見るべき所説を展開されてゐた由である。」と述べられている。このように橋本博士が『国語法要説』で新たに文節という概念を唱え、語が文において実際に働くさまを音声形式の上からとらえようとして、そこに文法論の基礎を求めたとされるのである。【以下、次回】